ロケット技術者 八千矛稔の回顧録

乙島 倫

第1話 NH2Aロケットの打ち上げ

 八千矛稔やちほこみのるは岩崎重工のロケット技術者で、ロケットの打ち上げ責任者であった。打ち上げるロケットはNH2Aロケット。YAXAと岩崎重工が開発した使い捨て型のロケットである。その日も、種子島発射場からNH2ロケット第59号機の打ち上げが行われようとしていた。

 射場の天候は晴れ。ロケットは二段式で先端部分に人工衛星が搭載されている。機体のほとんどは液体水素や液体酸素を収納するためのタンクである。機体はほとんど橙色に覆われているが、これは塗装ではなくむき出しの断熱材である。

 射点から数百メートル離れた司令室では、いつも通り、部屋の中央付近から八千矛やちほこが大型ディスプレイを見つめていた。八千矛は車椅子に座っており、その脇には二人の取次者が控えていた。いつでも八千矛からの指示が受けとれるようにするためであった。

 モニターを見ていた中堅社員が何かに気づいて、手を挙げた。

「あ、八千矛さん・・・・」

 すかさず、取次者の志真しまが厳しい様子で中堅社員の元に向かった。

「おい、カウントダウン中は、発射責任者に直接話しかけるな。ルールで決まっているだろ」

「あ、すいません」

 中堅社員は委縮して、黙ってひっこめようとしたが、志真は聞き取りを続けた。

「で、なんだ?」

「あそこ、ロケットの近くに鳥が・・・」

 メインモニターでは海鳥が射点付近を飛ぶ様子が見えた。

「ロケットはジェットエンジンと違って、空気は取り込まない。バードストライクは起きない。問題ないだろう」

 そう言い残すと、志真は八千矛の元に戻った。

「すいません。ロケットの打ち上げに関わる内容ではありませんでした」

「きこえたよ。だいじょうぶ。私も気づいていたよ」

 モニター画面から鳥が消え去る頃、カウントダウンは発射時刻に近づいていた。

「20、19、18、17、16・・・」

 機械合成音のアナウンスが立て続けに響く。

「フライトモードオン」

 ここで『フライトモード』が『オン』になるということは、熱電池ねつでんちが起動し、外部電源が内部電源に切り替わったことを意味する。熱電池は火工品である。仮にここでカウントダウンを停止させても機体のリファービッシュには膨大な作業が発生する。もう、後戻りはできないのである。

 そして、メインエンジンが火炎を噴き出した。しかし、メインエンジンだけの推力ではまだ機体は動かない。そして、カウントダウンゼロの瞬間。固体ロケットブースターが点火し、機体全体がゆっくりと空中に浮き始めた。

 ロケットの射点は種子島。ロケットは徐々に東の太平洋の方向に舵を取りながら、上昇を始めた。

 種子島にロケットの打ち上げを見に来たカップルがいた。男性はロケットの話に意気込むが、その説明を聴く女性はそっけない態度だ。ロケットは射点から爆音を上げ上昇すると、あっという間に見えなくなった。

 ロケットの飛翔経路に小笠原諸島がある。小笠原の父島の砂浜では若い女性たちが南洋踊りを練習していた。ロケットはそんな地上の様子をまったく気にすることはなく、はるか上空を超音速で通過していった。

 ロケットはしばらく、太平洋上を増速しながら飛翔を続けた。

 第二段エンジンの燃焼が終了するころ、ロケットは南アメリカ大陸の南端付近に到達した。大航海時代に航海士たちが命がけで開拓したマゼラン海峡。しかし、その海峡を航行する船はいない。そんなマゼラン海峡の上空付近で人工衛星は分離された。

 ミッション成功である。司令室は拍手に沸いた。ミッションは無事に終了した瞬間であった。

 ミッション終了後、大会議室では技術者たちが集まって懇親会が行われた。八千矛は参加した技術者たち一人一人に和菓子を配った。伊勢の有名な和菓子屋のもので、前もって総務が用意したものであったが、もし、ミッションが失敗していたら、この菓子はどうしていたのだろうか?

 懇親会の最後に八千矛は全体に挨拶をした。

「岩崎重工としてのNH2Aロケットの打ち上げミッションはこれで最後になるけれど、宇宙開発はこれで終わったわけではない。みんなの努力と成果は新型ロケットに受け継がれて、より大きく発展すると思う。いままでありがとう」

 八千矛は『岩崎重工の打ち上げミッションはこれで最後』と発言したが、これは何なのか?

 NH2Aロケットは退役を迎えつつあったが、いままでロケットの開発製造を分担してきた岩崎重工、EHIと瓦崎かわらさき重工の宇宙部門は本体から分離・合併して新会社になることが決まっていたのである。

 もともと、NH2Aロケットの後継機としてNH3ロケットの開発が行われていた。しかし、開発期間中に米国ではリユース型のロケットの打ち上げが活発となり、市場を席巻。これにより、打ち上げ市場は激変した。日本の宇宙開発も方針転換を余儀なくされた。

 使い捨て型のNH3ロケットの開発は中止。これに替わりリユース型の新型ロケットの開発を行うのが新会社の役割なのである。

 一方、壇上では志真がせき込みながら発言を求めていた。志真は八千矛に次ぐ、次長の立場であり、ナンバー2の立場である。

「八千矛さん、僕言いたいことがあるんですけど・・・」

「何だ?」

「今回の打ち上げは59号機。NH2ロケットの打ち上げは60号機までです。今回で最後ではないです」

「おおそうだったな」

 八千矛の小ボケに会場は笑いに包まれた。

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