「松江県祠堂確立地区再開発計画」について

一条中納言従三位藤原朝臣公麿

共紀2048年15月3日作成

【序】はじめに

 現在、我が国では地域の繁栄を求めて多数の再開発計画が企画立案され進行しているが、いまだに問題が山積している事は疑いようのない事実である。そうした問題の中でも特に厄介なのが「祠堂確立地区」問題である。今現在日本には同地区が38地点存在しているが、確立前に除去された非確立事例を除き[注釈]、完全に解決された例は存在しない。この現状を打開する第一歩として、本稿ではかつて西国地方で実施された大規模な社会実験「松江県祠堂確立地区再開発計画」について改めて取り上げることとする。周知の通り本計画は失敗に終わったわけであるが、その原因について取り上げる資料はあまり多くない。よって本稿の目的は、松江県祠堂確立地区の歴史から振り返ることで計画のどこに問題があったのか検討する材料を示し、これを広く周知することにある。本稿が将来的な祠堂確立地区問題解決の基礎となれば幸いである。


【第一章】「祠堂確立地区」の概要

 そもそも祠堂確立地区とは、法律によれば「いわゆる祠堂が撤去不可能な状態に陥り、都市計画やまちづくりの実行に著しい困難をきたす土地の内、国または地方自治体によって特別に指定されたもの」[1]である。ここにおける祠堂とは、一般的に「ホコラ」と呼ばれている小型の社殿様石造物のことであり、特に「[検閲]サマ」と呼ばれる存在を祀るとされるものである。ホコラは平安時代中頃には10件ほど、幕末には全国で30件ほどが確認されていたが、弘徳年間(共紀1920年代)までに約150件まで増殖、これをピークに安久元年(共紀1947年)には45件に減少し、現在の38件に至っている[2]。ホコラはいずれも大きさの異なる同一形状で、非破壊検査により材質は全て花崗岩と特定されている[3]。ホコラの特徴は破壊に伴う超自然的な被害(祟り)であり、破損状況によって祟り被害が異なることが古くから知られていた。現代では祟りの規模を基準として、以下の7段階に分類されている[2]。


 ①呪詛深度1。破壊した本人のみが死傷する。

 ②呪詛深度2。破壊した本人と共に同居する家族が死傷する。

 ③呪詛深度3。破壊した本人と共に同居する家族、その周辺住民が死傷する。

 ④呪詛深度4。破壊した本人の住居を中心として半径約100メートル圏内の人間が死傷する。

 ⑤呪詛深度5。破壊した本人の住居を中心として半径約500メートル圏内の人間が死傷する。

 ⑥呪詛深度6。破壊した本人の住居を中心として半径約1キロメートル圏内の人間が死傷する。

 ⑦特殊呪詛。動物や自然災害によって破壊された際の分類で、ホコラの所在地を中心として人間を死傷させる。半径はホコラの大きさや破損状況によって異なり、記録では概ね200メートル以下が多いが、最大の記録は約20キロメートルに及ぶ。


 さらに特筆すべき事項として、破壊されたホコラは1週間から1ヶ月程度で同じ場所に同じ形状・大きさで復元される[3]。そのためホコラを破壊してプレハブ小屋などを上から建築した場合は復元と同時に破壊が行われる判定となり、同地域に重大な影響を及ぼす。他方で破壊を伴わない場合は被害が出ず、また人口過密地域に増殖した例も無いため、前近代までは特に大きな問題とはなっていなかった。ところが高度経済成長に伴う都市圏の拡大によってホコラが住宅街などに取り囲まれる事案が発生したことにより、現代の再開発事業に影を落としているのが現在の状況である。


【第二章】松江県祠堂確立地区について

 松江県祠堂確立地区は、松江県[検閲]市[検閲]町に存在する国指定祠堂確立地区である。同地のホコラは現在60センチメートル立方ほどに復元されている。先行研究により、戦前までの間で確認された祟りは以下の10件と考えられており[4]、古くから定着したホコラであることから確立地区と認定された。


 ①共紀708年。地元の漁師が誤って屋根を破損させ、右足を失う。呪詛深度1。

 ②共紀880年。地震で倒壊する。被害者の記録なし。特殊呪詛。

 ③共紀905年。地元の百姓が供物目的で屋根を破壊し、両腕を失う。呪詛深度1。

 ④共紀1105年。源義親郎党がホコラを蹴倒して破壊し、一族郎党が即死する。呪詛深度3。

 ⑤共紀1290年。動物が衝突して破損し、様子を確認しに来た地元民が片目を失う。特殊呪詛。

 ⑥共紀1389年。不詳宗教集団がホコラで祭祀を行った際、荘厳に蝋燭が倒れ焼損。祭祀に参加した全員が舌を失い、主宰した僧侶は即死した。人為的ながら特殊呪詛と判定された例外。

 ⑦共紀1542年。大内氏軍勢の不詳足軽が悪ふざけで破壊し、彼の地元集落全員が即死した。呪詛深度5から6。

 ⑧共紀1676年。地震に驚いた動物が衝突し破損し、様子を確認しに来た地元民が右手指を失う。特殊呪詛。

 ⑨共紀1868年。御一新期の混乱で破損。被害記録なし。呪詛深度不明。

 ⑩共紀1943年。豪雨に伴う土砂崩れで埋没し破損。県庁職員が確認しに来た時点で復元されており、被害者なし。呪詛深度不明。


 以降このホコラは戦後復興で成立した市街地に内包され、大規模な開発を受けずに現在に至っている。先述したようにホコラは祟り機能と再生機能を有しているため、幾度となく立ち上げられた解体事業はことごとく失敗している。さらに基礎や地面ごと移設する計画も祟りで失敗し、再開発事業は中断を余儀なくされていた。こうした中で提示されたのが、次章で紹介する再開発計画である。


【第三章】松江県祠堂確立地区再開発計画

 この計画は、地元の建設企業である「株式会社ダーキニー」から提案された。再開発のテーマとして同社は「ヒトとホコラの共存共栄」を掲げ、ホコラの除去を目指すのではなく積極的な活用を謳っている。計画ではホコラに覆い被せる形でビルを建設し、ここに住居や商業施設などを入居させるとしていた。これによって「祠堂確立地区にヒト・モノ・カネを集積し、[検閲]市屈指の経済圏とする」予定であった[5]。

 松江県はこの計画を県議会に諮って採用し、共紀1980年に大規模複合施設「ホコランド」が完成した。これは中高層ビルの中を上半分が住宅階、下半分が商用階という2種類に分けたもので、入居者は全体で50戸を予定していた。だが完成直後に基礎工事の大規模な偽装が発覚し、施工を担当していたダーキニーが説明を拒否して音信を絶ったことで計画は中止となってしまった。これを受けて県議会はビルの解体を決定したが、解体工事に際してホコラに触れていないはずの作業員に祟りが発生してしまった。調査の結果ホコラの覆屋自体がホコラに取り込まれたと判断され、ホコラと共存する夢の建物は一転して巨大なホコラそれ自体となってしまったのである。結局県議会はこのホコラと化した建物について放棄を決定し、将来的な倒壊の可能性を考えて周辺住民を避難させることになった。共紀2036年、土佐県沖地震に伴う震災によって建物は完全に倒壊した。1階から3階が潰れる形で建物は完全に破壊され、結果として半径20キロメートル圏内が祟りの対象地域となったのである。倒壊した瓦礫はのちの復元に支障とならないよう遠隔操作の重機を駆使してホコラ部分を優先的に撤去し、震災から3週間後の復元と同時に周辺の保護と本格的な瓦礫撤去が行われた。地域一帯が復旧したのは、実に震災から5年後であったという。

 同地は現在もホコラを内包しているが、過去の教訓からホコラの周囲はいかなる人工物も設置されていない。ホコラが自身の判定を拡大する原理や基準は今現在も不明であるが、検証や実験は祠堂特別法(松江県祠堂確立地区大規模災害に係る特別措置法)で禁止された。当時の瓦礫の一部や過去の歴史などを語る「松江県立ホコラ記念館」が隣接する区画に建設され、古代から続くホコラとの関係を知ることができる。


【第四章】おわりに

 本稿では松江県祠堂確立地区の再開発計画と、それがもたらした大規模災害について概観した。地震によるホコラの破損は日本全国どこでも発生し得る問題であるが、耐震工事などはホコラの破壊と判定される恐れから放置するほかないのが現状である。身近なホコラには決して触れないようにするとともに、地震や火事などホコラが傷つき得る災害が起きた時は速やかに避難できる備えを日頃からしておきたい。


【脚注と参考文献】

[注釈]ホコラが増殖した直後から1週間程度は祟り・復元無しに破壊できることが確認されており、こうして除去されたホコラを「非確立祠堂」とも呼ぶ。

[1]祠堂確立地区法より一部引用。

[2]「祠堂確立地区について」(国土交通省、共紀2045年発行)

[3]「ホコラの物理的特性」(水川秀森、共紀2018年)

[4]「松江県史」(松江県史編纂委員会、共紀1950年)

[5]「ホコランド建設計画企画書」(株式会社ダーキニー、共紀1970年)

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