カエルを茹でる時、その者も茹でられている。

 11月1日、潮風が少し寒い。それでもまだ夏休み。


 2日前に半袖を来年に封印した僕ではあるけれど、もう秋物の長袖を超えて、冬物の上着の用意が必要になってくるかもしれない。


 今日は潮風がとても強い。クーラーボックスの紐が風に揺られて、パタパタと音を立てている。釣りウキもすぐに風で流されて、堤防側に引き寄せられている。なので、いちいち海側へと戻さなければならない。


 ただ風が吹いているだけならいいのだが、その風は氷属性だ。つい最近まで発汗んを促す暑さをはらんでいた火属性の風は、いつの間にか皮膚を縮こまらせる氷属性の風になってしまった。


 凍てつく風は、僕の顔を無数に突き刺す。僕はこんなこともあろうかと来て着ておいたパーカーのフードを深めに被る。


 少しはましになったが、自分の吐く息がフードの中に水気を溜める。その水気が風によって乾かされると、冷たさと水気の気持ち悪さが肌に伝わってくる。


 どちらにしても寒いし、嫌な気分になる。おそらく今日の正解は外に出ないことだ。ましてや、堤防釣りなどなおさらだ。


 今日だけは学校に行ってみるか? 


 まだ学校に暖房が付いているかは分からないが、こんな厳しい環境に身を置くくらいなら、寒風を防ぐことのできる学校に向かうことが賢い選択だろう。


 それでも僕が学校に向かわないのは、誰かとの約束を交わしているからなのかもしれない。また明日と言われて、来ない薄情さを持つほど人間として落ちぶれてはいない。


 なら、社会規範として学校に向かえ。という批判は真摯に受け止めなければならない。しかし、今日は彼女との約束を守ろう。


「呼んだ?」


 昨日ぶりの彼女の声が聞こえる。彼女は3日変わらず、白いワンピースと白いサンダルの様相を変えようとしない。今日は風が強いので、ワンピースのスカートと長い黒髪が揺らめいていた。


「……言葉では呼んでないですよ。」

「じゃあ、心では呼んでたんだ。」

「今ここに僕がいるということが答えですよ。」

「ここで会う忘れてなかったんだね。」

「ニワトリじゃないんで。」

「確かに、トサカ無いもんね。」

「僕とニワトリの違いそれだけですか?」

「大丈夫、見分けがつかなくても、君を取って食ったりしないから。」

「まあ、野生のニワトリを取って食う人は少ないでしょうけど。」

「じゃあ、隣座っていい?」

「どうぞ。」


 彼女はそう言って、僕の隣に座った。もちろん腕の触れる近さで、堤防に足を出して座っている。


「もっと僕に寄りかかってくれませんか?」

「……何? 少し強引さを覚えた?」

「そうじゃなくて、今日は寒いでしょう? 


 近くに人がいると体温を分け合って、温かいですし、今日は風がそちら側からよく吹いているので、風除けにもなります。」

「いいよ。君の風除けにでも、カイロにでもなってあげる。」


 彼女はそう言って、僕に寄りかかってきた。彼女の柔肌の感触が長袖の上から伝わってくる。今だけは3日前に封印した半袖を渇望した。


「体温高いですね。」

「君の近くだからかな?」

「さすが、逆ユニですね。」

「やっぱり、取って食っちゃうかも。」

「……ところで、3日間ずっとその半袖のワンピースですけど、洗ってるんですか?」

「失礼ね。昨日の私と今日の私は違うわよ。」

「まあ、白なんで清潔感はあるからいいんですけど。


 それよりも、その格好そろそろ寒くないですか?」

「出た。無意味な質問。」

「大丈夫ですよ。寒いって言うなら、抱きしめてあげますから。」

「する気もない癖によく言うわね。」

「……結局どうなんですか? 寒くないんですか?」

「結論から言うと、少し寒い。」

「なら、何か羽織るものを持ってきた方がいいんじゃないですか?」

「はあ……、君、もしかして海外の人?」

「日本在住14年の純日本人ですけど?」

「なら、馬鹿ね。」

「なぜですか?」

「日本の四季の過ごし方を心得ていないからよ。」

「四季?」

「秋はいづれ来る冬のために、寒くなってから数日は半袖で過ごすのよ。」

「そうなんですか?」

「はあ、これだから今の日本人はすぐに熱中症になるのよ。」

「どういうことですか?」

「今の日本人がなぜ熱中症になるか分かる?」

「それは地球温暖化で温かくなっているからじゃないですか?」

「それなら、まだ暑く成り切っていない5,6月に熱中症の患者が増えるわけないでしょう。


 今の日本人はすぐにクーラーを使い過ぎなのよ。」

「昔を知っているかのような言い草ですね。」

「まだ暑くない5,6月から本番の夏に備えて、体を慣らさなきゃならないのよ。クーラーを使うなとは言わないけど、少しずつ汗をかく練習をすべきなのよ。


 少し昼間に散歩するとか、激しい運動で汗を流すとか、お風呂の温度を高めに設定しておくだけでもいいわ。


 たったそれだけの対策を5,6月にしておくだけで、本番の7,8月の暑さに対応することができるのよ。実際、私はそれをしているおかげか、熱中症になったことが無いわ。


 このようなことがあるのなら、もちろん冬についての対策は簡単よ。冬が進む前の10,11月に少し寒いくらいの格好で過ごしておくことなの。そうすれば、12,1,2月の本格的な寒さに耐性がつくのよ。


 冬に布団に出れずに、起きる気が無くなるなんて、甘っちょろい人間の戯言を言わずに済むのよ。」

「その対策が半袖ワンピースって訳だ。」

「そうよ。さっき、私の体温が高いって言ったけれど、それは私の体が冬の準備を整えているってことなのよ。私は月1で血を吐き出す生き物だから、体温が低くなりやすいのにもかかわらず、毎日摩擦熱で体温を上げている君に勝っているのは、そういう理屈よ。」

「僕はそんな猿のような真似はしませんよ。」

「まだ通じてなかった?」

「僕も大概だが、君も大概だな。」

「否定はせずと。


 ……ひとまず話を戻すけど、この寒さ慣らし、暑さ慣らしは四季を何回も繰り返していれば、気が付くはずなんだよね。きっとこれは遺伝子的に染みついた本能的な行動のはずなのよ。


 でも、その本能的な行動が起こらないのはなぜだと思う?


 それは、便利さが緩やかに本能を殺しているからよ。」

「なるほど、抽象度が高いですね。」

「人間の生み出した冷房器具、暖房器具の進化が人間に備わった本能的な四季の生き方を無くしているのよ。


 でも、別に道具に頼ってもいいんじゃないかと思うんじゃない?」

「イエスと言って欲しそうなので、イエスとしておきます。」

「そう思うわよね。


 でもね。それはいつか臨界点が来る。いわゆる限界ってやつよ。


 ……ところで、茹でガエルって知ってる?」

「ゆっくりと水温の上がる水槽に蛙を入れても、熱さに慣れて、何の支障もなく普通に生き続けるって話ですよね。」

「そうね。


 だから、生き物は緩やかな温度変化に耐えることができるから、地球温暖化は問題ないって言う意見もあるわね。


 この意見についてどう思う?」

「ああ、そうなんだ。なら、ガンガンに暖房つけて、人間は涼しくいようと思うでしょうね。」

「私の思い通りの発言をくれるわね。もちろん、それは駄目だと私は考えているわ。」

「どうしてですか?」

「さっきの茹でガエルの話だけど、本当に水温を上げ続けて、大丈夫だと思うかって言うとそうじゃない。きっと限界はある。


 たとえば、生き物はタンパク質で出来ているから、タンパク質は60℃くらいで変質するから、基本的には茹でガエルは生きられないだろうね。


 つまり、カエルは際限なく茹でることは出来ないってことね。


 でも、その限界も知らず、君みたいに暖房をガンガンにつけ続ければ、地球温暖化が進むわよね。そして、知らぬままに、限界を迎えた生き物たちは死んでいく。


 その時、人間は気が付くのよ。


 自分も茹でガエルだったってね。


 自分も緩やかな環境の変化に気が付かず、何の支障もなく生きていたのだけど、限界が来て初めて、環境が非常にやばくなっていたことに気が付くのよ。


 それは、自分も生物だったって気が付くの。


 でも、きっと限界が来るまでは人間は何も動かないでしょうね。だって、その変化はとても緩やかで、自分自身には何の影響も感じていない。


 結局、人間は理性を持っていたとしても、痛みを伴うような変化が無ければ、大衆を動かすことは出来ないのよ。


 だから、人間は緩やかに限界となる臨界点へと向かっていく。」

「そうですかね? 


 一応、地球温暖化の理解も深まってきているんで、少しはましになるんじゃないですか?」

「じゃあ、君はなんで、ライフジャケットをしていないの?」

「えっ?」

「一応、海釣りなんだから、ライフジャケットはしておくべきじゃない?


 今日は風も強くて、もしかしたら、海の中に落ちちゃうかもしれないわよ。そして、あなたの足がつってしまって、泳げなくて、溺れ死んじゃうかもしれない。


 じゃあ、なんで君はそれを知っておきながら、ライフジャケットをしないの?」

「それは、そんなことが起こる可能性が低いからだよ。」

「そうね。


 でも、今から風が段々と強くなったら、君が溺れる可能性は段々と上がっていくわよね。


 それでも、君はライフジャケットを着ない?」

「そんなに風が強くなったら、海に落ちる前に釣りを止めますよ。」

「そうよ。止める。


 でも、そうなると、結局君は風が強すぎるという危機を感じた時初めて、君は行動を起こしたことになるの。


 つまり、痛みを感じた時に、限界だと知る茹でガエルと同じだと気付かないかしら?」

「そんなこと言ったら、危機があり過ぎて、何もできませんよ。」

「でも、そのたくさんある危機を対策しないのはなぜ?」

「それは、可能性が低いからですよ。」

「なら、その低い可能性のリスクと生きることに慣れてしまっている茹でガエルと言えないかしら?」

「……。」

「3回目ね。


 ……結局、人は痛みを知るまで、動くことは出来ない。未来の予測は簡単にできるのに、それに応じた対策をしないのよ。


 もちろん、ライフジャケットをしていない私もまた君と同族だけどね。」

「なんか、極論ばかりで嫌ですね。」

「君は海に落ちても、大丈夫そうね。犬は犬かきが上手だもの。」

「負け犬の遠吠えってことですか?」

「京の心が出てしまったわね。」

「……そろそろ時間じゃないですか?」

「あら、本当ね。そろそろ帰らないとね。」


 彼女はそう言うと、僕に寄せた半身を離した。すると、彼女が寄りかかっていた僕の半身に冷たい風が吹き抜ける。


「君も少しこの寒さに慣れると良いわ。


 それが、人間として、緩やかに殺されないコツ。


 人間としての臨界点を迎えないための対策よ。」


 彼女はそう言って、堤防を立ち上がると、この場を去った。


 彼女が去ってから、しばらく経つと、風が少しずつ強く吹いて来た。


 …………



 僕は長袖をまくって、肌を出した。


 やはり、寒かった。

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