第7話 事故

 都大会が終わってから一カ月ほどたった、二月の終わりのころのことだ。

 その日は、朝から晴れて、寒い日だった。もう冬も終わりなのに、北からの風がビュービューふいていて、小学校の校庭の上を雲がどんどん流れて行くのが、体育館からもよく見えた。


 平松センパイはミニバスチームを卒業してしまった。

 でも、わたしはミニバスを続けていた。パスカットができなくたって、ちゃんとドリブルとかシュートとかの出来る、『ふつう』の選手になりたかった。

 『ふつう』の選手になれたら、ひいばあちゃんに会いに行けると思っていた。

 都大会のあと、コーチから、平松センパイは、中学のバスケットの強豪チームにスカウトされたと聞かされた。もう、中学生の練習に参加してるんだって。学校も、都内の私立中に行くのだそうだ。

 あの都大会が、平松センパイにとっていい過去になればと思った。それは平松センパイが決めることなんだけど、平松センパイならだいじょうぶだとも思った。


 その日、お母さんは仕事で、夜おそくなる予定だった。

 お母さんは、一月の終わりころから働き始めていた。近くの建設会社の事務の手伝いを、週三日している。

 仕事から帰ると、お母さんは、

「ああ、つかれた。もう動けない。」

なんて言ってるけど、顔は笑っていて、なんだかちょっと楽しそう。

 それで、お母さんが仕事でおそくなる日は、学校が終わった後、わたしはカナばあちゃんちに行くことになった。陸人は、おじいちゃんが保育園までむかえに行って、先にカナばあちゃんちに行っている。

 駅をこえて、カナばあちゃんちに向かって駅前の商店街を歩いているとき、パン屋さんの前で、ふっと足が止まった。

(誰かに、見られてる?)

 でも、顔をあげても、辺りを見回しても誰もいなかった。

 商店街のビルの向こうを、灰色の雲がどんどん風に流されていて、工事中のクレーン車のクレーンが、空に向かって黒々とのびているのが見えていた。

 わたしは、ふうっと大きく息をはいて、そのままカナばあちゃんちに向かって歩きだした。

 その時だった。

「あのねえ」

 とつぜん、後ろから声をかけられた。

 ふり返ると、体の大きな、知らないおばさんが立っていた。

 マスクをしてるけど、鼻が出てしまっている。少し猫背で、今日は風が強くて寒いのに、コートもジャンパーも着てなくて、黒いセーターの上に、なんとなくよれた黄緑のカーディガンをはおっていた。ひざがかくれるくらいの濃い茶色のスカートで、足には、ぶあつそうなくつ下に、緑のビニールのサンダルをはいていた。わたしの前に立っているだけなのに、わたしにおおいかぶさってくるような感じがして、気がついたら半歩後ろにさがっていた。

「中学校へは、どっちへ行けばいいか、分かる?」

(えっ、中学校?)

 中学校は、このあたりには二校ある。

「あの、谷川中と西中と、どっちですか?」

「どっちって、よく分からないけど、中学校に行きたいんだよ。」

 谷川中と西中じゃあ、駅の向こう側とこっち側、正反対だ。どっちか分からないと、道案内のしようもない。

「たぶん、駅のこっち側だ。」

「じゃあ、西中です。」

「どう行けばいい?」

(どうしよう。)

 西中までは、細い道を何度も曲がって行くのが近い。

 大きな通りぞいにも行けるけど、それだとかなり遠回りになってしまう。

「えっと、ここからだと、最初の十字路をわたって左に曲がって、二番目の道を右に曲がって」

(あれっ? 三番目だったかな?)

 自分が行けば、どこで曲がるのかは分かっている。だけど、口で説明しようとすると、なんだかハッキリしない。

(どうしよう。いっしょに行く方が早いかなあ。)

 通り過ぎてゆく人はいるけど、立ち止まってくれる人はいない。

 その時だった。

「あら、日奈子さんじゃない?」

 かけられた声にふり向くと、柊さんが立っていた。

(助かった!)

 本当は、なんでここに柊さんがいるのか、びっくりして不思議に思うところなんだろうけど、柊さんがそこにいるだけで、なんだかほっとした。

(もう、だいじょうぶだ。)

 そう思えた。

 柊さんは、ベージュのうす手のコートをさらりとはおって、こん色のトートバックを肩からかけていた。

「どうしたの?」

「あの、道をきかれて。急に中学校はどう行けばいいのかって。」

「そうなの? 誰に?」

 そう言われてふり返ったら、

「あれっ?」

さっきまでここにいた、あのおばさんがいなくなっていた。

 見まわすと、黄緑のカーディガンが、商店街をふらふらと、駅に向かって歩いていく後姿が見えた。

「あの人?」

 わたしがうなずくと、柊さんは、しばらくおばさんの後姿を見ていた。

「たしか、駅前に交番があったわよね。」

「あっ、はい、あります。」

「じゃあ、交番できいてもらったほうが、いいかもね。」

 柊さんにそう言ってもらえて、すごく気が楽になった。

 ただ、遠ざかって行くおばさんのまわりの空気が、ちょっとだけぼんやりと、ゆらゆらゆれているような気がした。でも、たぶん気のせいだ。そんなものが見える力は、もうわたしには無いはずだから。

「ところで日奈子さん、わたしのこと、おぼえているかしら。」

「はい。」

(もちろんです。)

 わたしは、ちょこんと頭をさげた。

 柊さんには、ひいばあちゃんのところで会ったことがあるだけだった。

 まさかわたしの地元で会うなんて、思ってもいなかった。

(なんで、柊さんがここにいるんだろう。)

 ようやく、そう思った。

「おぼえていてくれたのね。よかった、助かったわ。わたし、道に迷っちゃったみたいなのよ。」

(えっ、柊さんが道に迷う?)

 なんだか、意外な気がした。

 それに、そこは、駅からまっすぐに続く商店街のはしっこだった。だから、まっすぐにもどれば駅に着く。迷うような入り組んだ路地ではなかった。

 柊さんが、あたりをキョロキョロ見ながら言った。

「この辺に来たの、初めてなのよ。」

「駅は、あっちです。」

 首をのばせば、小さく駅も見えていた。

 柊さんは駅の方をちらりと見てから、

「ああ、うん、駅は、あっちね。ええっと、でも、わたし、友だちの家に行こうとしてるところなの。」

 その日の柊さんは、そわそわして落ち着かず、いつもの柊さんとはちがっていた。柊さんが、前かがみになって、わたしの顔をじっと見た。

「日奈子さんの家って、この近くなのかしら。」

「そうですけど。」

「あっ、そうだわ。日奈子さん、この辺りで、おいしいケーキとかシュークリームを売っているところを知らないかしら。友だちに、何かお土産を持って行きたいなと思って。急いで来たから、まだ何も買ってないの。」

 なんだか、みょうな感じだった。

 柊さんの背中側には、通りに面したパン屋があって、窓ごしに、店の中のショーウィンドウにケーキがならんでいるのが見えていた。

「うしろのパン屋さん、ケーキも売っています。」

 柊さんは、後ろをふり向いて、パン屋さんを見た。

「あら、ほんとだ。ほんとね。ちょうどよかったわ。助かったわ。あそこで買えばいいのね。」

「でも、もう一軒、おいしいケーキ屋さんが駅の近くにあります。」

 すると、柊さんの顔がパッとかがやいた。

「そうなのっ!」


 そのケーキ屋さんは、去年の秋に、商店街からは少しはなれたところにオープンしたばかりの、小さなお店だった。オープンしたときに、おじいちゃんが、一度、そこでケーキを買ってきた。小さいケーキだったけれど、とてもきれいでかわいくて、めちゃくちゃおいしかった。

 でも、

「うわっ、高っ!」

と、レシートを見たお母さんがさけんでいた。

 パン屋さんのケーキのほうが、大きくて安い。もちろん、ちゃんとおいしい。

 だからうちは、ケーキを買うときは、いつもはパン屋さんで買っていた。


「そうなのね。そのおいしいケーキ屋さんは、ここから遠いのかしら?」

「そんなに、遠くはないです。駅からわりとすぐです。」

「そうなのね。そうだ、日奈子さん、申し訳ないんだけど、そのお店まで連れて行ってもらえないかしら。それで、もし時間があったら、どのケーキがいいか、いっしょに選んでくれないかしら? わたしって、ケーキとかを選ぶの、わりと苦手なのよ。もちろん、時間があって、いやじゃなかったらでいいんだけど。」

(やった!)

 もちろん、いやなんかじゃなかった。

 きっとその時、わたしの顔はパッとかがやいていたと思う。

 そのおしゃれなケーキ屋さんに入れることがうれしかった。小さいケーキ屋さんだったから、買いもしないのにお店の中に入って、ケーキをながめただけで出て来るなんて、とてもできない。だから、いつも前を通りすぎるだけだった。

 なんだかドキドキしてきた。

(ちょっとおそくなっても、ひいばあちゃんのお友だちにたのまれたって言えば、きっと、カナばあちゃんもおこらないよ。)

「はい、分かりました。」

「そう、助かるわ。」

「こっちです。」

 わたしはスキップしそうになる足で、スタスタと前を歩いて、駅のロータリーで左にまがって、柊さんを小さなケーキ屋さんまでつれて行った。

「ここです。」

 柊さんの後について、ケーキ屋さんの中に入ると、

「いらっしゃいませ。」

チョコレート色のエプロンをつけた、お姉さんの声がした。

 イチゴのショートケーキ、チョコレートケーキ、モンブラン、ミルフィーユ、ナポレオンパイ、ブルーベリーのムース、どのケーキも小さくて、かわいらしくて、キラキラかがやいて見えた。

「みんなおいしそうねえ。どれがいいと思う?」

 わたしはショーケースから目がはなせなくなっていた。

 自分が食べるわけじゃないのだけれど、わたしはいっしょうけんめいにケーキをえらんだ。それだけでも、じゅうぶん幸せな時間だった。

 十二個のケーキを選び、お会計をしてもらっていたところに、

「あの、失礼ですが、この後、どちらへ行かれますか?」

店の奥から、白いコックコートを着たおばさんが顔を出した。

 わたしと柊さんは顔を見合わせた。

「さっき、北町二丁目の建設現場で事故があったみたいなんです。」

「事故? じゃあさっきの救急車の音」

 柊さんはそう言ったが、わたしはケーキに夢中で、救急車の音がしていたなんて知らなかった。

「ええ、建設中のマンションで、クレーン車が横だおしになったみたいなんですよ。それで、商店街の先の道は、今、通行止めになっているみたいです。」

 息を飲んだ柊さんが、ちょっとしてから、ふうっと大きく息をはいた。

「そう、そうなんですね。」

「今、地図を持ってきますから。」

 店のおばさんが奥から持ってきてくれた地図を見ると、事故は、カナばあちゃんちに向かう方ではなく、西中へ行くとちゅうのマンションの工事現場で起きていた。もしあそこで柊さんに会わずに、あの知らないおばさんを連れて西中へ向かっていたら、わたしは事故に会っていたかもしれなかった。

「日奈子さん、すぐ、おうちに電話した方がいいんじゃないかしら。」

 自分のスマホを取りだしたら、電源が切れていた。

 柊さんがスマホを貸してくれて、カナばあちゃんに電話をした。

 すぐにカナばあちゃんが出て、

「日奈子? 今どこ?」

って言われた。

「ケーキ屋さん。」

「ケーキ屋さん?」

 柊さんがスマホを代わって、カナばあちゃんに事情を説明してくれた。

 後でカナばあちゃんに教えてもらったのだけれど、カナばあちゃんは柊さんと、前に、ひいばあちゃんちで会ったことがあるのだそうだ。

「ちょっと遠回りになりますけど、緑ヶ丘公園の方を回って行った方がいいかもしれませんね。」

 ケーキ屋のおばさんにまわり道を教えてもらい、かんたんな地図まで描いてもらって、わたしと柊さんはケーキ屋さんを出た。

 柊さんは心配だからと、カナばあちゃんちの前までわざわざわたしを送ってくれた。

「はい、これ。」

 カナばあちゃんちの前で、二つあったケーキの箱のうちの、大きい方の箱をわたされた。

 柊さんが、ケーキ屋さんで、ケーキを二つの箱に分けてつめてもらっていたので、

(ひょっとしたら)

って、ちょっと思っていた。

 でも、小さい方の箱だと思っていた。

「えっ、でも。」

 口はそう言っていたけれど、わたしの手は正直者で、ケーキの箱を受け取って、しっかり持ち手をにぎっていた。

「いいのいいの。どれもおいしそうで、ちょっと買いすぎちゃったから。それに日奈子さんにあのケーキ屋さんにつれて行ってもらってなかったら、わたしも、事故に会っていたかもしれないでしょ。

 じゃあ、日奈子さん、またね。」

 柊さんは小さい方のケーキの箱を持って、夕ぐれの住宅街を歩いて行った。

 遠ざかっていく柊さんを見て、わたしは急にひいばあちゃんに会いたくなった。

 うちに入って、カナばあちゃんにケーキをわたした。

「あらまあ。柊さんは?」

 柊さんはもう友だちの家に行ったと答えたけど、カナばあちゃんは玄関から前の通りまで見に行った。

 でも、もう、柊さんの姿はなかった。


「ただいま。」

 その日の夜の七時頃に、お母さんが、カナばあちゃんちに帰って来た。

 本当は、わたしと陸人をむかえに来たってことなんだけど、お母さんはさっさとエプロンをつけて、カナばあちゃんの夕ご飯のしたくを手伝っていた。

 仕事が早めに終わったと、お父さんもやって来た。

 それで、おじいちゃんとカナばあちゃん、お父さんとお母さん、陸人とわたし、みんなでいっしょに夕ご飯を食べた。

 最近は、週一、二回は、カナばあちゃんちで、みんなでいっしょに夕ご飯を食べていると思う。


 夕ご飯を食べて、うちに帰って、お風呂からあがってから、ひいばあちゃんに電話しようかなって思った。

 でも、スマホを手に持つと、

(なんて言おう。)

って、思ってしまった。

 それに、まずは、スマホを充電しなくちゃいけなかった。

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