第3話 陸人

 わたしには、五つ年下の弟がいる。

 名前は陸人(りくと)。

 陸人も、東京の多摩地区の、わたしが生まれたのと同じ病院で生まれた。

 わたしのときと同じように、お母さんは陸人を生むために、わたしを連れて多摩の実家に帰った。お父さんは、仕事があるからと、ひとりで静岡のマンションに残っていた。

 お父さんは、男の子が生まれたら、自分の名前の『誠』の字を使って『誠司(せいじ)』っていう名前をつけたいと考えていたそうだ。もし、わたしが男の子だったら、わたしの名前が『誠司』になっていたのかもしれない。多摩にいたお母さんは、お父さんから電話でその話を聞いて、ちょっと違うかなって思ったけれど、あんまり言うと、ひとりで静岡にいるお父さんのきげんが悪くなるので、とくに反対はしなかった。

 予定通りに陸人が生まれると、お父さんも多摩にやって来た。

 陸人とお母さんが退院した日、おじいちゃんはずっとニコニコしていた。カナばあちゃんは、だっこした陸人の顔をわたしのほうに向けて、

「ほら、日奈子お姉ちゃんですよ。」

って、何度も言っていた。でも、陸人は、ちっちゃくて、真っ赤で、顔がしわくちゃで、まだ目が開いてなくて、わたしのことなんか分からないみたいだった。

 その夜、ひいばあちゃんが電話してきた。

 お父さんを電話口によんで、

「『誠司』っちゅう名前は、その子にはおうとらんで。『陸』の人と書いて『りくと』がええじゃろ。」

って、言った。

 スピーカーフォンでそれを聞いていたお母さんも、カナばあちゃんもおじいちゃんも、ひいばあちゃんの意見に賛成して、多数決で名前は『陸人』になった。

 いきなりの電話だったので、お父さんはびっくりしてしまった。

「なんで『誠司』って名前にしようと思っていることを、ひいおばあさんが知ってるんだ?」

「さあ。わたしは、ひいばあちゃんには言ってないけど。」

と、お母さんは陸人にミルクを飲ませながら、お父さんを見ずに答えていた。

 たぶん、お母さんがカナばあちゃんに、カナばあちゃんがひいばあちゃんに話したんだと思う。

 それ以来、お父さんは、ひいばあちゃんがあんまり好きじゃなくなっていたらしい。

 陸人が生まれて二週間くらいして、わたしたちは静岡にもどった。

 カナばあちゃんもついてきて、二カ月くらい、静岡でいっしょにくらした。


 わたしが小学三年生になって、陸人が保育園に通う年になったとき、お父さんが別の会社で働くっていう話になった。

「それだとお給料、倍近くない? うそでしょ、そんなことってあるの?」

「うそなもんか。大手の外資系のIT企業だから、年齢とか関係ないんだ。能力主義なんだよ。」

 おそく帰って来たお父さんと、お母さんが、台所で話していた。

「給料がふえるの、うれしくないのか?」

「そりゃあうれしいけど、あなた、だいじょうぶなの?」

「だいじょうぶだよ。そりゃあまあ、今までとちがって能力主義なんだから、がんばらないといけない。それは分かってるから。それに、給料だけじゃないんだよ。指定された駅近くのマンションなら、家賃の補助が出るんだ。半額以上の補助だぞ。出来たばっかりのマンションで、部屋数も多いし、美希だって、自分の部屋が持てると思うよ。」

「でも、千葉県でしょ。」

「千葉県だけど、都心まで電車で一時間かからないし、駅だって、街だって、でき立てホヤホヤなんだ。」

「ふ~ん。」

 このときの『ふ~ん。』は、お母さんがきげんがいいときの『ふ~ん。』だった。

 わたしたちは、それまで住んでいた静岡県から、千葉県へ引っこすことになった。

 敦子おばさんは、

「行く。ぜったい遊びに行く。とまりでもいい?」

って、ニコニコ笑って、引っこしの荷造りを手伝ってくれた。


 引っこしてみると、お父さんの言った通りだった。

 街はどこもかしこも、まるで魔法でパッと取り出したみたいにピカピカで、今、出来たばっかりという感じだった。駅前のロータリーの周りには、高いビルやマンションがいくつも立ちならび、お日様の光をあびてキラキラ光っていた。ロータリーからは大きな道路が、まっすぐにのびていた。道のガードレールも歩道橋も、ペンキがはげているところとか、よごれているところがなかった。

 駅ビルは、入ったところが二階までふきぬけになっていて、見上げるだけでなんだかわくわくした。フロアの床もピカピカで、うすよごれた感じが無くて、天井の照明も明るくて、ビルの中全体がキラキラ光っているような気がした。駅前のロータリーを走るバスやタクシーまで、新しいような気がした。

 でも、この新しい街には、商店街が無かった。スーパーも、お肉屋さんも魚屋さんも、八百屋さんも、お豆腐屋さんも、お菓子屋さんも、ドラッグストアも、全部、駅のロータリーの周りのビルの中にあった。

 多摩のカナばあちゃんちの駅の駅ビルは小さくて、ちょっと古くて、ちょっとくたびれて休んでいるような感じで、おしゃれではないけれど、のんびりできるところだった。でも、この街の駅ビルは、きれいでピカピカで、中にいると、早く歩かなくちゃ、何か買わなくちゃいけないような感じがした。

 駅から歩いて三十分くらいの国道ぞいには、大きなショッピングセンターもあった。車じゃないと不便な場所だけど、週末はいつも駐車場はいっぱいで、周りの街からもたくさんお客さんが来ていたみたいだった。家具でも、洋服でも、靴でも、カバンでも、パソコンでも、なんでも売っていた。三階は、たくさんのお店に囲まれたフードコートになっていて、フライドチキン、ハンバーガー、うどん、カレー、ラーメン、ピザ、食べる物ならなんでもあった。いつも混んでいて、空いた席をみつけるのが大変だった。

 静岡にあったショッピングモールよりも広くて、ピカピカしていたと思う。

 ショッピングセンターのすぐとなりには、大きな公園があった。広い芝生の広場もあって、あまりきれいな水ではなかったけれど、池もあった。公園を囲むようにマンションがいくつも建っていて、そこだけで、小さな街になっているような感じがした。

 できたばかりの公園だから、はえている木は、どれもひょろりとたよりなさそうだった。引っこしたばかりの春のころには、たくさんの人が公園にいたけれど、夏になると、まだ木かげができない芝生の広場はとても暑くなって、公園には人がいなくなった。

 セミの声も聞こえなかった。


「ここって、近くに、神社とかお寺とかないんだね。」

 引っこしてから、お母さんと、マンションの台所のテーブルで、街の地図を見ていた。

「えっ? ああ、そう言えば、そうね。」

「お正月の初もうでとか、どうするのかな。」

「お正月は、多摩のカナばあちゃんちに行くでしょ。」

「あっ、そうか。」

 うちはそれでいいけれど、神社もお寺も無い街っていうのが、なんだか不思議な気がした。


 ものすごく暑い夏が、ようやく通り過ぎたころだった。

 陸人の様子が、おかしくなった。

 急に熱を出したり、おなかをこわしたり、夜中にゴホンゴホンとせきこんだり。急に大きな声を出したかと思うと、寒そうにブルブルふるえながら、ボソボソと小さな声で何か言ってることもあった。でも、後でたずねても、陸人は、よく覚えていなかった。

 お母さんが陸人をつれて、近くのお医者さんや、都心の大きな病院にも行ったけれど、何の病気だかぜんぜん分からなかった。

 そのころのお母さんは、いつもイライラしていた。

 とてもつかれていたんだと思う。

 目の周りが赤くはれていて、

「日奈子、静かにして。」

とおこられた。わたしは、ひとりで本を読んでいただけだったのに。

 仕事が変わったばかりでいそがしいのか、お父さんはいつもおそく帰って来た。

 休みの日も、家にいても、ずっとパソコンに向かって仕事をしていることが多かった。

 お母さんが陸人のことを話そうとすると、

「うん、分かった、分かったから。今、大事なとこなんだ。分かったから、ちょっと待って。これ終わったら聞くから。」

と、パソコンのキーボードをたたいていた。

 でも『これ』は、いつまでたっても終わらなかったけれど。

 そうすると、お母さんとけんかになる。

「ちゃんと聞いてるの? 陸人のことなのよ!」

「ちゃんと聞いてるって! ちゃんと考えてるよ! だけど、今の会社をクビになったら、このマンションにだって住めなくなるんだ。お金がなかったら、陸人を病院にもつれていけなくなるだろ。

 もう、ガミガミ言うな。ぼくだって必死なんだ。」

 夜中に大声で言い合う声が、台所から聞こえた。

 そのころは、陸人がコホンコホンとせきこむので、あまり窓を開けていなかった。カーテンもずっとしめてあった。うちの中がうす暗く、空気がどんより重くなっていた。

 陸人だけでなく、お母さんの顔色も、だんだんとくすんでいった。

 わたしと陸人がふとんに入ると、毎日のように、お母さんが多摩のカナばあちゃんと電話で話すのが聞こえた。電話をしながら泣いていた。

 お父さんは、どんどん仕事がいそがしくなって、うちには帰ってこない日が多くなった。

 お母さんは、お父さんがたまに帰ってきても、あまり話をしなくなっていた。


 九月の最後の土曜日、多摩のカナばあちゃんがうちに手伝いに来ることになった。

 前の日の夜になって、あわてて帰って来たお父さんは、

「なんでだよ? 多摩からお母さんが来たって、ねる部屋なんてないだろ。」

と言い始めた。

 お母さんは、だまっていた。

 お父さんには、相談しないで決めたのだ。


 その日は、お父さんも朝からうちにいたけれど、台所のイスにすわって、

「ああ、ちがうちがう、そうじゃないんだって。」

とかなんとか、ブツブツ言いながら、ずっとノートパソコンのキーボードをたたいていた。

 十一時ごろ、お昼前に、

   ピンポーン

玄関のチャイムがなった。

 お母さんがあわててドアを開けに行った。

「えっ、ひいばあちゃん? どうして?」

 お母さんの声に続いて、

「ほな、あがらしてもらうで。」

知らない人の声がした。カナばあちゃんの声に、ちょっとにてるような気もしたけど、でも、ちがう声だ。

 のぞいたら、玄関につっ立っているお母さんをおしのけて、知らないおばあさんがうちの中に入って来た。リビングのドアのかげから見ていた、わたしの横を通りすぎ、ふと立ち止まって、わたしをふり返った。

「あんた、日奈子かいな?」

 わたしは、固まった体のまま、首だけでうなずいた。

 すると、そのおばあさんは、ニッコリと笑って言った。

「そうか。日奈子、大きゅうなったなあ。」

 それが、ひいばあちゃんだった。

 わたしは、その時初めて、ひいばあちゃんに会った。

 本当は、まだ小さかった赤ちゃんのころに、わたしはひいばあちゃんに何度か会っているのだそうだ。でも、もちろんわたしは覚えていなかった。

 それまでは、ひいばあちゃんは、ずっとお話の中の人、お母さんやカナばあちゃんの会話の中にだけいた人だった。

 そのひいばあちゃんが、今、わたしの目の前にいた。

「日奈子、ええ子じゃけえ、窓を全部、開けんさい。」

 ひいばあちゃんにそう言われて、わたしは、

(ああ、これでもうだいじょうぶだ。)

と思った。

 この人がわたしたちを助けてくれるんだと、すぐに分かった。

 わたしは急いで、うちじゅうの窓をあけた。

 秋の始まりを告げる、少しすずしくなった空気が、部屋の中に入って来た。

 ひいばあちゃんは、わたしが開けたはき出しの窓から、スリッパをはいてベランダへ出た。ひいばあちゃんの背中の向こうに、青く高い空が広がっていた。

 ひいばあちゃんは、両手をぐっと頭の上にのばして、大きく息をすって、ゆっくりとはいた。それから、わたしをふり返って、ベランダの向こうを指さして、

「日奈子、あっちには何がある?」

と、わたしにたずねた。

「あっちは、ショッピングセンター。」

「ショッピングセンターか。それだけか?」

「あと、公園があって、池もある。」

「公園と池か。神社とか、お寺とかはないんか?」

「うん、近くにはない。」

 わたしの答えを聞いて、ひいばあちゃんは、もう一度大きく息をすって、はいた。

「日奈子、玄関も開けてきんちぇ。」

 わたしは、あわてて玄関のドアを開けに行った。

 玄関を開けると、うちの中にたまっていた重い空気が、ひいばあちゃんのいるベランダからの風におし流されて、玄関から外へと出ていった。

 外の通路を、大きな荷物を両手に持った、カナばあちゃんが歩いて来るのが見えた。

「日奈子、ちょっと手伝って。」

 わたしは、カナばあちゃんの荷物を半分受け取った。

「ひいばあちゃん、来てる?」

「うん、来てるよ。カナばあちゃん、これ、どこに置くの?」

「台所。冷蔵庫のとこに。ひいばあちゃんちのほうで取れた野菜だって。ひいばあちゃんが持って行けって、うるさいのよ。」

 カナばあちゃんとうちの中へもどると、お母さんは台所のすみにひざをついてしゃがみ、陸人をぎゅっと胸にだきしめていた。

 お父さんがテーブルから立ち上がり、お母さんのとなりにしゃがんで、お母さんを見て、小さな声でたずねた。

「どういうことなんだ? ひいおばあさんが来るなんて、言ってなかったろ。」

 お母さんが、お父さんをじっと見て、首を横にふった。

 開いたままのお父さんのパソコンが、台所のテーブルの上に置いてあった。

 カナばあちゃんは、持ってきた野菜を

「どっこいしょ。」

と、冷蔵庫の前に置いた。

 お母さんが立ち上がり、カナばあちゃんをつかまえて小さな声で言った。

「なんで、ひいばあちゃんがいっしょなの?」

「まあ、それは、まあ、ねえ。」

 カナばあちゃんは、お母さんを見ずに、冷蔵庫を開けて野菜を入れ始めた。

「おねえちゃん、あの人、だれ?」

 声にふり返ると、陸人が、わたしのひじをつかんで、ベランダのほうを見ていた。

「ひいばあちゃんだよ。」

 陸人の顔色はまだ悪かったけれど、わたしを見あげた瞳には、光と力がもどっていた。


 ひいばあちゃんは、ベランダからうちの中にもどってくると、子猫が初めての家のにおいをクンクンかいで回るように、うちの部屋の中を見てまわった。

 しばらくすると、ひいばあちゃんが、わたしのとなりに立っていた陸人のそばにしゃがんで、それから陸人をじっと見た。陸人が、わたしの手をぎゅっとにぎった。

「陸人、ええ子にしとったか?」

 陸人は、ひいばあちゃんをじっと見て、うなずいた。

「ほうかほうか。」

 ひいばあちゃんは陸人の頭をゴシゴシとなでると、立ち上がって冷蔵庫の前にいるお母さんに近づき、言った。

「陸人は、ここにおったらあかん。引っこさんといけん。」

「えっ?」

 お母さんが、息を飲むのが分かった。

「何を勝手なことを言ってるんですか!」

 床にすわってしまっていたお父さんが、バッと立ち上がり、大きな声を出した。

 ひいばあちゃんが、ぐいっと近づいて、お父さんを見あげた。

「陸人と仕事と、どっちが大事じゃ?」

 今度は、お父さんがはっと息をのんだ。

「陸人とこの家と、どっちが大事じゃ?」

 お父さんは、ごくんとつばを飲みこみ、ひいばあちゃんを真っすぐに見て答えた。

「陸人です。」

 そう答えると、お父さんは、ひいばあちゃんの向こう、ベランダの先に広がる青空を見た。それから、もう一度、ひいばあちゃんと目を合わせて言った。

「陸人のためなら、どんなことでもします。」

「ほいたら、決まりじゃ。生まれた多摩の地でくらせば、陸人は元気になるけん。」

 お母さんは力がぬけたように、台所の床にペタンとすわりこんだ。

 陸人がお母さんに走りより、お母さんにだきついた。

 カナばあちゃんが、お母さんをだきよせるようにして立たせ、台所のテーブルの椅子にすわらせた。

 すると、お母さんがテーブルにつっぷして、わっと泣き出した。

「ひいばあちゃんに、引っこせば陸人が良くなると言われて、ホッとしたんだと思う。」

 後でお母さんはそう言っていた。

 お父さんが、ふらふらと、力なく、泣いているお母さんのとなりにすわった。

 カナばあちゃんが、お父さんの肩に手をおいて言った。

「誠さん、こういう時、ひいばあちゃんの言うことは、まあ、あたるんです。気に入らないかもしれないけど、一度試しに、美希と陸人だけでも、しばらくわたしたちの所でくらすようにしてみたら。」

 お父さんがだまったまま下を向いて、うなずいて言った。

「よろしくお願いします。」

「美希も、それでええか?」

 お母さんは、何度も何度もうんうんとうなずいた。

 それから、横にすわっていたお父さんを見た。

「ごめん、美希。」

 お父さんがそう言うと、お母さんが、お父さんにすがりつくようにだきついて、また泣いていた。お父さんが、お母さんをぎゅっとだきしめていた。

 なんとなくだけど、お父さんの顔は、いつものようにこわばっていなかったと思う。

 しばらくして泣き止むと、お母さんが小さな声で言った。

「ひいばあちゃん、ありがとう。」

 ひいばあちゃんは、冷蔵庫を開けて、麦茶の入ったペットボトルを取り出すと、わたしに言った。

「日奈子、コップはどこじゃ?」

 プラスチックのわたしの赤いコップを手わたしながら、わたしはたずねた。

「陸人は、ずっと多摩に住んでないといけないの?」

「いんや、そげんことはない。ずっとおらんでもええ。好きなところに行ってもかまわん。

 そいでん、疲れて、元気がなくなってしもうたら、生まれた所にもどって来ればええんじゃ。陸人はな、土地との結びつきが強い子じゃけん。生まれた所におったら、それだけで元気になる。」

「わたしは?」

「日奈子か? あんたは陸人とはちゃうがな。もっとほかに、やることがあるじゃろ。」

「わたしのやることって、何?」

「さあ、なんじゃろうな。それは、あんたが自分でみつけんさい。」

 ひいばあちゃんの言うことは、全部はよく分からなかったけれど、陸人もお母さんも、これで元気になるんだということは分かった。

「おい、玄関、開いたままだぞ。」

 おじいちゃんが、うちの中に入ってきた。

「車止めるとこが、なかなかみつからなくてなあ。」

 そう言って、ぐるっと部屋の中を見回して、お母さんやお父さん、陸人とわたしを見て、カナばあちゃんがうなずくのを見て、うんうんとうなずいた。

 ひいばあちゃんが、

「早い方がええ。」

と言うので、お母さんはそのまま陸人をつれて、ひいばあちゃんといっしょに、おじいちゃんの車で、多摩のカナばあちゃんちへ行くことになった。

 代わりに、カナばあちゃんが、うちにいることになった。

 お父さんとカナばあちゃんとわたしの三人で、しばらく千葉のマンションでくらした。


 多摩のカナばあちゃんちでくらしはじめると、ひいばあちゃんの言った通り、陸人はみるみる元気になった。

 スマホのスピーカーから聞こえてくるお母さんの声も、どんどん明るくなっていった。

「陸人ね、今日は、近所の子どもたちと、朝から虫取りに行ってるのよ。」

 お母さんの後ろで、陸人が

「電話に出る、出る」

と、元気そうにごねているのが聞こえた。

 うちの中が明るくなった。

 まるで新しく照明器具をつけたようだった。

 お父さんも、夕食のテーブルで笑うようになった。笑っているふりをしているんじゃなくて。もう、うちの中ではパソコンを開かなくなった。

 三カ月が、あっという間にすぎた。

 夕ご飯のときに、カナばあちゃんに、

「日奈子も、カナばあちゃんちで暮らしたらどうかな?

 まあ、転校することになるけど。」

と言われ、

「うん、いいよ。」

と答えた。横でお父さんが、

「日奈子、いいのか?」

と聞くので、もう一度、

「うん、いいよ。」

と答えた。

 転校は、いやではなかった。

 その時通っていた千葉の小学校には、友だちはいなかったから。


 千葉の小学校で、わたしは、最初はうまくやっていた。

 友だちが転校するという話を先生がする前に、うっかり、

「わたしのこと、忘れないでね。」

と、言ってしまったことがあったけど、そのときは、まだどうにかなっていた。

 でも、わたしが、あまり話したことのない、となりのクラスの男子に、

「明日、ケガするといけないから、塾、休んだら。」

と、ろうかで声をかけたあたりから、様子がおかしくなってしまった。

 未来が見えたとか、そういうことではない。深く考えずに、頭の中にうかんだことを、そのまま口にしただけだった。

 でも、その男子は、次の日、駅前の学習塾の階段でころんで、本当に、左手の骨を折ってしまったのだ。

「月野さんになんか言われると、ケガをするらしい。」

なんて、かげでコソコソ言われたりしていた。

 親から、『月野さんとは、話さないように。』と言われている子もいたみたいだった。

 クラスのみんなは、だんだんとわたしと口をきかなくなっていた。

 

 三年生の三学期に、わたしは、多摩のカナばあちゃんちに引っこした。

 おじいちゃんとカナばあちゃん、お母さんと陸人とわたしの五人で、多摩でくらした。お父さんだけが、千葉のマンションに残り、週末にカナばあちゃんかお母さんが交代で見に行ったり、お父さんが多摩にとまりに来たりしていた。

「こっちは、のんびりしてて、いいなあ。」

 お父さんは、何度もそう言っていた。


 わたしが多摩に移ってから三カ月くらいたって、四年生になったころのこと。

 日曜日に日帰りでやってきたお父さんは、前よりずっと元気そうだったけれど、あまり笑っていなかった。

「おじゃまします。」

と、カナばあちゃんちの玄関で、大きな声で言ってはいたけれど。

 後で、お母さんとふたりで、ずっと二階で話をしていた。

「だいじょうぶよ、収入がへったって。わたしだってまだ働けるんだから。」

 二人で階段を下りてくるときに、お母さんがそう言っていた。

 六人でテーブルを囲んだ夕ご飯のとき、

「誠さんも、こっちに住んだらどうかしら。やっぱり、家族はいっしょにくらしたほうがいいと思うのよ。」

 急に、カナばあちゃんが言った。

「はあ。ですが、仕事が。」

 すると、横でビールを飲んでいたおじいちゃんが、まってましたとばかりに口を開いた。

「いやね、それなんだけどね。この近くで、地ビールを作りたいっていう話があってね。それで人をさがしてるそうなんだ。」

「ビールですか?」

 お父さんはビールが好きだった。

 そんなに量を飲む方ではなかったけれど。

「いやね、多摩のほうで何件かやっているイタリアン・レストランなんだけどね、大手のチェーン店とはちがった、こう、何か特色を出したいって言う話でね。」

「それで、地ビールですか。」

「そう、そうなんだよ。その会社の会長さんが、自治会の役員もやってるんでね、この前の会合の後の親睦会の席で、話が出たんだけどね。」

「でも、ぼくは、ビールなんて、造ったこと無いですよ。」

なんて言いながら、お父さんは、なんだかうれしそうだった。

 それからなんだかんだで、お父さんは千葉のIT企業をやめて、こっちに引っこして、ビールを造る会社で働くことになった。

「まあ、しばらくは、うちの二階に住めばいいよ。きゅうくつかもしれないけど。」

「でも、ごめいわくじゃ」

「そんなことないわよ。にぎやかになっていいじゃない。」

 そう、おじいちゃんとカナばあちゃんは言っていたが、すぐにうちはみつかった。駅の反対側で、カナばあちゃんちから歩いて三十分くらいのところにあるマンション。

「神奈川県の小田原の息子のところでくらすことになったんで、だれかいい人に、空いているマンションの部屋を貸したいんだって。」

 カナばあちゃんが、友だちの友だちから、聞いてきた話だった。

 それでうちの家族は、今のマンションに引っこすことになったのだ。お父さんは、会社がずっと近くなった。

「こういうのを、『とんとんびょうし』って言うのよ。」

 お母さんが、そう言っていた。

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