一日目

第17話 帰還

 びいどろの門をくぐり、時間の海へと泳ぎだす。

 どぷりと飛び込んだガラスの中は、粘性の高いシロップで満たされているように、体が宙に浮かぶようだ。泳ごうにも腕も足も、自由には動かない。

 前にも後ろにも進めず、体は重く、微かな耳鳴りが聞こえ、液体に全てが溶け込まれる感覚――がした矢先、


 全身が吸い出されるようにぬるりと外側へと抜ける。

 すべてがスローモーションのようで、瞬く間に――。


 世界が戻ってきた。

 

「んぬわっとと」

「のっと、気をつけよ」

 階段を一段踏み間違えたようによろめく俺を、小さな手がくいっと引き上げてくれた。


「ありがと、記念すべき一歩目からすっ転ぶところだ」

「無事で何より」

 ニコリと微笑む。


 眼の前には川、背後には山。たどり着いたのは、また河原だった。

 急に海中から陸地に打ち上げられて、正常な重力に頭がまだゆらゆらと揺れている。


 平衡感覚だけではない。脳内にもなんともネットリとした奇妙な違和感を覚える。脳内で、鍋に入ったあんかけスープに溶き卵を回し入れられてるような、気持ちの良い不快感だ。

 

「具合が悪そうだのう」

 そう言って笑顔を作っていたニヨリ様も、決して顔色は良くない。むしろこれは、何か酸っぱいのがこみ上げてきそうなのを我慢している顔だ。

 背中でもさすろうかと声をかけたが、今はそっとしておいて欲しいと威厳のないポーズで止められた。

 万一に備え少々の距離を保ちたいところでは有るが、握られた小さなその手がフタリの別離を許さない。


「ぐぬぅ……久しく忘れておったが、こんな感じじゃったか」

 それでも、迷走感は長く続かなかった。

 ニヨリ様も症状がだいぶ落ち着いたようで、淀んでいた目に光が戻ってくる。

 

「ひとまずお疲れさん、か。儀式自体は成功したのかね」

「む? そうじゃな」

 まだ繋いだままだった手をゆるりと解くと、川の縁へと歩を進めた。

「うむ、成功のようじゃな」

 川向うへと送った視線を、穏やかに細めている。


「ここって、朝と同じ場所……でいいんだよな? 少しズレてる?」

「同じ場所で合っておるぞ」

 記憶の風景とはだいぶ差異がある。山肌は崩れておらず、川の曲がり具合も違う。

 それでも間違いなく面影が有るために、妙に混乱してしまうのだ。


「何度か大雨があってな。特に数年前の――んんっ? 十数年後の? うむぅん。まぁ大水がたびたび有ってな。隧道側まで水が押し寄せてきよった」

 どちらの時間を主軸に過去・未来として語るのかを迷っている。確かに悩みドコロか。

 

「あー、その大水の影響で、トンネル下の土がゴッパリ持ってかれたのか。それで車が抜けれるほどの大穴が空いてたと」

 川の流れは下流の都市部の様に、まっすぐとは整備されていない。アチコチで蛇行しており、増水のたびに少しづつ流れが変わるのだろう。


「人の手が入らねば、あっという間に様変わりもするのぅ」

「恐るべし大自然、ってやつだな」

 定型句のように耳にする言葉だったが、実際に山を削るほどの力を時間を超えて見比べたと成れば、さすがに痛烈に身に染みてくる。

 

 人の手・自然の力と来れば、気になるのが我らの神の御力おちからだ。

「例えばだけど、こういう『水の力を集めてバーンっ』的な事も、信者のパワー、霊思れいし? が溜まれば出来たりするのか?」

 まさか出来てもやらないとは思うが。

 両手を後ろに引き、野球のスイングをするように前へと放つゼスチャー。


「ぬむぅ。出来ぬ事はないのじゃが、なかなか骨は折れる。軽く話したと思うが、我神わしは人の想いから作られた神じゃ。人の手でなせる事は出来るが、自然を操る様なマネは出来ぬ」

 こちらを真似てか、高々と掲げた力を解き放つモーションをする。

 そして、その手をクロスさせてバツ印を作った。

 

「やっぱり、そんなに上手い話は無いか」

 何やら世知辛い……ん?

「人の想いから作られた神様とか……そんな話したっけ?」

「ぬ、しておらんかったかの?」

「うぬ、聞いておらんのぅ」

 思わず、古風な口調を真似てしまう。

 

「我神は、山や川などから生まれた所謂いわゆる自然神でもないし、物体に魂が宿った付喪神つくもがみ的な物でもあらぬ。純粋に人の願いが撚り集まって生まれた……まぁ【土地神】と言うのか合点がいきやすいかの」

 正しくは鎮守の神じゃが、似たようなもんとごちる。

 

「そういう訳で、残念ながら『大自然の力ー』などとは出来ぬ。人の力で成せること――鉄砲水の様に、石を積み上げて、堰き止めた水を一気に放つ様な事は出来ても、雨を降らして川の水を増やせ、と言うのは無理じゃな」

「それでも大したものだと思うけど」

「まぁ……それも、存分な霊思が有れば、の話じゃが」

 むぅと、口を尖らせる。現在の素寒貧すかんぴんだとそれほどの御業みわざは無理と言う事だろう。

「まぁ自然にゃ敵わんって事か」

 ありそうな言葉で話を〆た。


 自然と人との関係なんてのに思いを馳せると、川のせせらぎ一つにも趣を感じるもんだ。

 手を浸すと、冷たさと穏やかな流れを感じる。当たり前だが、俺の手一つ程度じゃ、川の流れは変えられない。

 タープでも貼って、このままのんびり川遊びと洒落込みたいところだが、残念ながら片付けるべき用事があった。

 立ち上がり、手を払って水を切る。

 図らずもみそぎとまでは行かないが参拝前の手水も済んだ。気を引き締め直し、作戦開始と行こう。

 何でも来いだぜ。



「んむぅっ。では気を取り直し。なにはともあれは拠点との接続じゃな、屋代やしろにむかうぞ」

「拠点というと、え、この上かい?」

 上空から降ってきた祠を思い出して、背後の山を見上げる。さっきまでお呼ばれしていた家は、落ちる前はこのトンネル山の上にあったハズだ。

「あー、山登りかぁ」

 高さは30m、いや40m以上? 建物の高さの図り方とか習ったよなぁ。スッカリ覚えてないや。


「いや、あれはこの時代では使っておらぬ別邸じゃ」

「そういえば、『もっと立派な場所がある』って言ってたか」


「なので、これから向かうのは本宅。集落の中じゃ」

 指をさしたのは、川の対岸。橋を渡った先の集落の方向だった。

 登山をせずに済んだ喜びに、控えめに小さくガッツポーズをする。



「それでは参ろうか」

「ウッス」と相槌を返し、いざ歩き始めた所で数歩、ニヨリ様の歩みが止まった。

「ぬ、うかつ」

 何か用事を思い出したようだ。


 コホンと一拍置いて、羽織はおりを風になびかせながら、悠然ゆうぜんとこちらに振り返る。


「ようこそ、我が霊域へ」

 鎮守の神は、みやびやかに笑みを浮かべながら、雄々しい角と片腕を大きく伸ばす。

 威厳と慈愛に満ち溢れた趣の中に、隠しきれない弾む声。


「この地が、我神わしまつられし山紫水明にて清幽の地、【爾唯織にいおり】じゃ」


「え、なんて?」

 ドヤりながらセリフを決めたニヨリ様だが、聞き慣れない単語が多すぎて、普通に聞き返してしまう。


「ぐにぬぬぬ」

「あだだだ」

 角の先で脇腹をぐりぐりされた。

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