イン・ザ・コクーン
やまこし
イン・ザ・コクーン
「ごめん、撮られちゃったかもしれない」
正子は部屋に入ってくるなり舌をぺろりと出して謝罪した。正確に言えば謝罪の言葉を述べただけだった。
「かまわないよ、そんなことより遅かったじゃないか」
昭弘は正子の腰に手を回す。
「夫の夕飯を作ってからきたんだけどね、ちょっと時間がかかっちゃって」
「メニューはなんなんだい」
「カレーよ」
「偶然だな」
昭弘は目を見開いた。
「うちも今日カレーだったんだ」
「あら、召し上がってからきたの?」
「ああ、軽くな」
正子は右眉だけを上げた。これは彼女が何かを深く、深く疑うときの仕草で、昭弘は彼女のこの表情が好きだった。
「何を疑っているんだ?」
「黙ってここにきてるの?」
「まさか」
「じゃあなんで奥様はカレーなんて作ったのよ」
「ただ、食べたかったらしいぞ」
正子はもう一度、右眉を上げた。
昭弘はふと浮かんだ疑問を口にすることにした。
「その顔、左側ではできないのか?」
「どの顔?」
「その、眉毛を片方だけあげる顔だ」
「シンメトリーにできるか、ということ?」
「そう」
正子は試してみたが、どうもうまくいかない。その表情はとても滑稽だった。
「どうして笑ってんの?」
「試している顔が、おもしろい」
「どうもできないみたい」
結果的に話を逸らしたことを糾弾されることもなく、2人はひとしきり笑った。そのときの真子の顔は、折り目正しくシンメトリーに、両方の眉毛が下がっていた。
まだ哭声がこだまするような、都内のラブホテルの一室で、シーツのシワの上に横たわる正子は昭弘に改めて問うた。
「私が写真に撮られたってことは、昭弘さんも撮られたってことでしょう?」
「そうだろうね」
「本当に構わないの?」
「かまわないよ」
「お仕事が…なくなったりしないの?」
「今更何を言っているんだ。心配するくらいなら、会うのをやめてもいいんだよ」
意地の悪い返しに、正子は唇を尖らせる。昭弘はその唇を親指と人差し指でつまんだ。
「これは僕らだけの問題なんだ、本来は」
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最初に大俳優である当麻昭弘のスキャンダルが報道されたのは半年前のことだった。おなじくベテラン俳優の梧(あおぎり)正子は、昭弘に妻がいることを承知して彼を誘った。映画の撮影現場で一緒になった昭弘に一目惚れをした。女性の証とされる器官はもう長いこと使っていなかったが、その休眠期間を感じさせることなくその快楽を受け入れた。自らも結婚をしていたが、正子はまっすぐと昭弘と向き合った。なぜなら、正子の夫には他の相手がいるからだ。相手がいるようになってからもう十五年ほどになる。夫ははじめの3年の間こっそりと逢瀬を重ねていたらしいが、ある日相手の女性を連れて家にやってきた。離婚を切り出されるのかと思ったら、この女性からしか得られないものが僕にある、と高らかに宣言されて、正子はそれを自然と受け入れた。
「なるほど、わかりました」
夫は正子のことも女性として愛してくれたうえに、よき友として、一生を添い遂げる相方として、穏やかな時間を過ごした。不満はなかった。
その人からしか得られないものがある、正子はその言葉の意味を昭弘を目の前にして、本当に了解した。昭弘と正面に向かい合い、お互いの手を絡ませたとき、お互いが左手の薬指に指輪をしていることを感じた。正子と夫だけが了解している世界が、この指輪の中にある。そしてそれを、誰も邪魔してはならない。
昭弘は初めて寝るとき、正子に子供がいないことを念を押して確認した。
「子供がいるということは、僕たちだけの問題ではなくなるということです」
正子は何度も「いない」と言ったがなかなか信じてもらえず、体に何一つ布を纏っていない状態になってももう一度聞かれた。この時ほど「ない」ことの証明のややこしさを感じたことはなかった。
結局その逢瀬は週刊誌に抜かれて、お互いは世間に糾弾された。大物俳優同士のダブル不倫、字面にすればその華やかさはあるのかもしれないが、週刊誌に載った自分たちの姿はまるで、テレビに映る同業者にしか見えなかった。自分たちが載った週刊誌をコンビニで買って、ホテルで記事を音読して笑った。正子の夫は、デジタル版の記事のスクリーンショットをメッセージで送ってきた。「(笑)」とのコメントつきで。
週刊誌を片手にホテルを出ると、三流週刊誌記者が大勢、カメラの大きな眼をこちらに向けてきた。
「なんですか?」
昭弘は腹の底から、まっすぐに声を飛ばした。撮影現場で空気を一変させる声だ。
「これは私たちと、私たちの家族の話です。たった4人だけの話です」
記者たちは一瞬怯んだが、その中でも一番若い記者が撃ち返す。
「スポンサーに迷惑がかかるんじゃないですか?」
「あなたたちが騒ぐから、問題になるんでしょう。いいですよ、いまから妻に連絡しましょうか?」
記者たちはまた黙る。水を打ったよう、という表現がまさにぴったりだ、と正子は心の中で実況をする。
「私たちも、あなたたちも、もうじゅうぶんに大人ですよね?私たちは、私たちという関係の中にあり、あなたたちの人生には、まったく関係がありません」
その後も結局マスコミの糾弾は止まらなかったが、昭弘も正子も動じなかった。正子の夫も「週刊誌がやけに迷惑だが、勝手に騒ぎ立てる様は見ていて面白い」とワイドショーの録画を酒の肴にしている。
昭弘とその妻、正子とその夫、その4人の中に成り立つ「わたしたち」という関係は、奇跡のバランスの上に成り立っている。これが全ての人に了解されるとは誰も考えていないが、その奇跡のバランスを当人たちは味わっている。
こんなものは、いつか簡単に崩れる。なにかのすれ違いや、ボタンのかけ違いが突然致命傷になり、バランスが崩れて世界は崩壊するだろう。
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「この世は、とてもうるさすぎるんだよ」
会うために使っていた高級ホテルには、ことごとくパパラッチがいて、2人はいい加減疲れてきた。意表をついて、都内の比較的安いラブホテルを選んだが、どこから情報を得たのかやはりパパラッチがいた。
「ここは、どこよりも静かだ」
ラブホテルには、特有の静けさがある。命の交換が行われているとは到底思えないような、この世から切り出された空間が並んでいる。
「そうね」
「ここには、僕らだけがいる」
(了)
イン・ザ・コクーン やまこし @yamako_shi
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