02
◇◇
家に帰るとリビングで恭平がテレビを見ていた。なじみ過ぎて一瞬家を間違えたかと思った。
「ただいま」背中に声をかけると、「おかえり」恭平は画面から視線を外さずに言う。
「恭平だけ? 他の人は?」
「おばさんは買い物に行った」
留守番をしてくれたらしい。家の鍵を持ってなかったから助かった。
テーブルの上にはお茶が残り少ないコップと、一口サイズのアイスの空袋があった。
うちには今小さな子どもがいないから、家族は恭平がかわいくて仕方ない。お母さんは恭平が好きなアイスを箱で買ったり、お父さんは恭平を連れて釣りに行ったり、お兄ちゃんは小学生の自由研究を全力で手伝ったりする。
「お茶のおかわりいる?」
「ほしい」
自分のついでに恭平の分も入れる。恭平はアニメに夢中だ。キャラクターの必殺技に、おおっ、と目を輝かせる。年相応の反応に笑いを堪えた。恭平に見つかったら拗ねてしまうから。
手持ちぶさたなので、チェストの前に座って水槽を眺める。緑の水草の間を青の尾のグッピーが泳いでいる。熱帯魚はお父さんの趣味だ。
エンディングが流れてから、ふと思いついたことを小さな背中に聞いてみた。
「恭平は私のどこが好きなの」
「げほっ」
お茶が変なところに入ったらしくむせている。落ち着いてから私をにらむ目は少し涙目だ。
「急に何」
「気になって」
友だちと学校のかっこいい人、芸能人の話で盛り上がることもある。だけど、誰かを好きになってうれしくなったり苦しくなったりするような甘酸っぱい思い出が、私にはまだない。
そんなことを正直に言えば、また憐みの目で見てきた。この前もどこで補習のことを知ったのかこんな目で見られた。まだ算数のくせに。
「どこって……どこだろう。話し方とか変なのに」
「変?」
友だちにも「お年寄りみたい」と言われたことがある。自然の不思議を紹介する教育番組があって、その案内役であるカメ博士の口調をマネしているうちに癖になってしまった。特に星がテーマの日は5分前からテレビの前で待ち構えていた。
恭平はうなるほど考えたものの、結局答えは出なかったらしい。
「やっぱりわかんない」
「それでいいのか」
「好きな人いるか聞かれたとき、栞の顔が浮かんだ」
だから、そうなんだと思う、と声を尻すぼみにさせて、恥ずかしいのかテレビの画面へそっぽを向く。恭平がこっちを見なくてよかった。私は今うれしいやら照れくさいやらで変な顔になっているかもしれないから。
ゲームができなくても、恭平は相変わらず遊びに来るし、生意気だ。だけど恭平のお母さんにこの前会って、恭平が最近嫌いな牛乳を飲みだし、ちゃんと宿題をするようになったと聞いた。
体がむずむずする。じっとしていられなくて立ち上がり、水槽の前から恭平に近づく。「なんだよ」と警戒するその頭をぐしゃぐしゃなでた。
「それやめろ」
「照れるなあ。ありがとう」
私の手をどかそうとした小さな手は、そのまま膝に置かれる。
「まだゲームできねえの?」
「明日でテストが全部返ってくる」
補習とテスト勉強の甲斐あって、今回は赤点を取らない自信がある。
「明日、ラスボス倒そう」
恭平は素直にうなずいた。
「赤点回避したら、堂々とふたご座流星群を観れる」
「でた。星オタク」
「今見えている星は数年前の光から何百年、何万年も前の光が同時に届いてるってロマンじゃん。お兄ちゃんがもうすぐ新しい天体望遠鏡を買うって言ってたし、恭平も夜来る?」
「うん」
「しし座流星群のときみたいに、後から風邪ひかないようにあったかい服着ておいで」
「風邪ひかない!」
恭平が今の私の年になるまであと6年。小学校、中学校、高校をまたぐ長い期間にいろんな人と出会うはずだ。
冴えない年上を追いかけなくても、同級生で好きな子ができて付き合ったりするのだろう。それでも今は、あの約束を守ろうとしていることがうれしいなんて思ってしまうのだ。
「貴重な初恋を私なんかに使ってもったいない」
「ハツコイ?」
「初めての恋」
漢字に変換できたのか、ああ、と納得する。
「栞も好きな人作らないで待ってて」
「え?」
「栞の初恋もおれがいい」
「そればっかりは保障できないなあ」
正直に答えたら眉がハの字になったので、「そうなったらすごいね」適当になだめた。
どちらにせよ「その日」に自分がいないだなんて、そのときの私はこれっぽっちも疑わなかった。
次のテストはどの教科も平均点よりも上だった。やればできるじゃないかと自分で褒める。
今日は1日中雨が降り続いて、下校する時間帯にはますます強くなっていた。大粒の雨が音を立てながら傘を跳ねる。靴は濡れて冷たいけれど、家へと向かう足取りは軽い。
夜ごはんを食べてからゲームをしようと約束している。明日は土曜日だからほどほどに夜遅くなっても大丈夫。恭平のご両親にも許可は取った。今日中にクリアできるだろう。
恭平は昨日家に来て、『有言実行だろ』と算数の100点のテストを見せてきた。
『有言実行って漢字で書ける?』
『書けるし!』
私たちの会話を聞いていたお父さんがおもしろがって鉛筆を渡す。恭平はテストの上の部分に四字熟語を正しく書いた。『すごいじゃん』素直にほめるとドヤ顔になった。
信号待ちの間、冷たい風がびゅっと音を立てて吹いた。口元まで覆うように、マフラーをしっかり首に巻き直す。
日が落ちるのが早い冬は、部活があると夕方でも帰り道は真っ暗になる。冬の夜空は星がきれいに見えるけれど、今は厚い雲に覆われ、強い雨で視界が悪い。
歩行者信号が青になって足を進める。タイヤが激しく擦れる音が聞こえて傘をあげれば、ライトがやけにまぶしくて、そして――。
長谷川栞の記憶はそこで終わる。
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