スピカ

森野苳

天の川釣り

01

 ◇◇


 数字とアルファベットが並ぶプリントを穴があくほど見つめても、答えはひらめかない。鉛筆を持つ手はいつからか止まったままだった。


「こんにちはー」


 1階から元気な声が聞こえて、降参して鉛筆を置く。あれが来たら集中できなくなるだろうから。

 お母さんの声も聞こえた後、階段を駆け上る音がして、勢いよくドアが開いた。

 ノックもせずに部屋に入ってきた少年、日野ひの恭平きょうへいは家が隣の小学生だ。


「ゲームしよう!」

「今勉強中」


 解きかけのプリントをつまんでひらひらと揺らすと、二重の目がまばたきする。


「熱あるんじゃねえの?」

「平熱。高校生は補習があって忙しいのだよ」


 点数の低い生徒が招待される補習でえらそうに言うことではないけれど、恭平にはいつも暇人ひまじん扱いされているので、小学生にはわからないのをいいことに忙しいアピールをする。

 前から苦手だった数学。この前のテストでとうとう赤点を取ってしまった。机に出しっぱなしだったテストを今日のように突然遊びにきた恭平に見つかり、憐みの目で見られたのは記憶に新しい。


「それで、12月までゲームできなくなった」

「はあ!?」


 他のテストも点数が悲惨だったせいで、次のテストが終わるまで親からゲーム禁止令が出てしまった。

 恭平と進めていたRPGはラスボス戦の目前。今日こそクリアするつもりで来たのだろう。あんぐりと口を開けている。


「私が禁止されただけだから、ゲーム貸すよ」

「いい。待つ」


 口を尖らせる少年の頭をぐしゃぐしゃなでた。


「やめろ」

「恭平の髪は触り心地いいなー」


 ひとりでゲームを進めてもいいのに、私を待ってくれるらしい。高校生を呼びつけにするし、生意気だけれど、かわいいところもあるのだ。


「ホシュウってやつ、早く終われ」

「努力はする」


 顔立ちが整っているこの少年は、そのうち女子から視線を集めるようになるだろう。



 ○



 家の近くにイチョウの古木が植えられた公園がある。遊具は少ないけれど、キャッチボールや自転車の練習ができる広さで、ちょうど今の時期はイチョウの葉が黄色く色づき、銀杏ぎんなんが落ちている。

 家に帰るには公園を通り抜けるのが近道になる。放課後の補習で疲れ果て、今日も近道しようとして、公園に入る前に足を止めた。

 すべり台の前で女の子と野球帽をかぶった男の子が向かい合って立っている。男の子の方は知った顔だ。おしゃべりというには気軽な雰囲気ではなく、引き返して遠回りの道を歩く。


(あれはもしかして告白か)


 最近の小学生はませていると思いつつ、少年やるなあ、と姉代わりとして誇らしくなった。




しおり!」


 家までもう少しという道で後ろから呼び止められた。

 夕陽を背にして恭平がスポーツバッグを肩からかけて走ってくる。今日は少年野球がある日だったようだ。勉強は苦手でも、去年から友だちに誘われてはじめた野球はがんばっているらしい。


「野球お疲れ」

「ん」


 恭平が追いつくのを待って並んで歩く。いつもなら今日あったことを聞いてもいないのに話してくるのに、今は口を開けては閉ざすの繰り返し。どうした。

 不審に思いつつも家の前に着き、じゃあね、と門に手をかけた。


「イチョウ公園の前にいただろ」


 ぎくり。

 恭平も気付いていたみたいだ。隠す理由もないからうなずいた。


「でも、告白の内容は聞いてないよ」


 ぎくり。

 今度は恭平がたじろぐ。そんな浮気がばれたような顔をしなくても。

 落ち着きがない恭平を見ていると、好奇心がむくむくと湧いてきた。


「付き合ってって言われた?」

「付き合わない!」


 突然の大声にからかった私の方が焦った。しまった、いじりすぎた。


「ごめんごめん。もうからかわないから」

「おれは」


 必死な表情で私を見上げる。


「栞が好きなんだよ!」


(今の流れだとライクじゃなくてラブの方か)


 好かれているとは思っていたけれど、そういう感情だったとは。やっぱり最近の小学生はませている。ゆとり教育のせいか。自分も入っていたはずだけれど。そんなよけいなことを考えているあたり、私も相当戸惑っているみたい。


「だから、付き合え」

「人に何かを頼むときは『ください』って丁寧に言わないと」

「付き合ってください」

「ごめんなさい」

「なんで!」


 今後のためにアドバイスしたものの、丁寧に言ったって答えは変わらない。だって周りから見れば、真実は違っても、私が小学生をたぶらかしたことになってしまう。


「ちょっとは考えろよ」


 6才の年齢差はどうしようもないのに、恭平が眉を下げて弱々しい声を出すから困った。


「泣くな少年」

「泣いてない」


 普段生意気な分、恭平が泣きそうになると居心地が悪くなってしまう。生意気でもいいから笑ってほしいと思う。そう思うぐらいは、私もこの少年のことを気に入っている。


「ねえ、恭平」


 小さな肩がびくりと震える。


「恭平が今の私の年になって、もう一度告白してくれたなら、そのときはちゃんと考える」


 これが今の私が言えるめいっぱい。心の中では高校生の恭平は私に告白したことさえ忘れるかもしれないと思いながら、今の、小学生の恭平を傷付けないように言葉を選んだ。


「どんな男がいい?」

「え? えっと、私より背が伸びたらいいね」

「ほかには」

「うーん……。勉強教えてほしい。あ、これは今の話か」

「ほかには」


 予想外の質問攻めにあたふたする。


「私も好きになってしまうような人」


 小学生相手に真面目に答えて恥ずかしくなっていると、「わかった」私の胸ほどの高さにある顔がぐっと上がった。


「背も抜かして、頭もよくなって、栞がほれるくらいいい男になって、おれは絶対もう一度言う!」


 自分でハードルあげちゃったよ、なんてからかうこともできなかった。


「楽しみにしてるよ」


 上から目線なのは照れ隠し。どきっとしたのはなんだか悔しいから内緒だ。

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