16(2)

 1階の渡り廊下にある自動販売機に向かうまで、通りかかった他の教室でも生徒が勉強していた。反対にいつもなら複数の部活が練習しているグラウンドは人影がなく、閑散かんさんとしている。


「元気ない?」


 眼鏡の奥の瞳に何でも見抜かれてしまう。

 雑賀君はいつも心に余裕があるように見える。今の私みたいに自分のことで精一杯になることもあるんだろうか。


「進路が全然決まらなくて。郁も高橋君もしっかり考えているから、不安になる」

「ああいうタイプは一度決まったら早いから」


 自動販売機の順番を譲り合って、先に雑賀君がコーヒーを選ぶ。私は甘いものが飲みたい気分でカフェオレを選んだ。


「雑賀君は不安にならない?」

「なるよ。今は選べるように勉強するぐらいしかできない」


 未定でもちゃんと先を見据えている。


(私は色々なことが中途半端だ)


「雑賀君ってできた人だよね」


 思ったまま褒めたのに、心外だといった反応を返される。


「結城は俺のこと過大評価してる。自分で言うのも残念だけど、自分勝手で、性格悪い人間だから」

「優しいよ」

「優しくしたい人に優しくしてるだけ」


 こういう思わせぶりなことを言うところと、私がたじろぐのを見て笑うところは、たしかに性格が悪いと思った。


 校舎に戻って、3年生の教室の前の廊下を歩く。教室と反対側、昇降口の開いているドアから吹き込む風が冷たい。ガタンと下駄箱の鉄の扉が閉まる音と、話し声が聞こえた。


「今日家誰もいないので来ませんか?」

「この前もそう言って途中で帰ってきたじゃん」

「ふふっ。急いで着替えましたね。今日こそほんと」

「んー……。いいよ」


 女子の甘えるような声と、この数ヶ月で耳になじんだ声。

 私はうつむいて、脇目も振らずに足を動かして、手前の階段を上ったところで小さく溜息を吐いた。

 これまでも、話すようになってからも、小泉先輩が女子といる光景を何度も見ている。嫌でも視界に入ってくる。

 小泉先輩の噂を、【友だち】の存在を忘れていないつもりだったのに。日に日に強くなる胸の痛みも、深くなる糸の色彩も気づかないふりをしてきたのに。私は後輩でいると決めたのに。

 泣くことになるとわかっていたのに。


「不安なのはあの人も原因なんじゃないの」


 この人はどんなこともお見通しだ。隠そうとしてもどうせ明らかにされるから、早々に降参する。


「底の見えない沼に足を突っ込んだ気分」


 沼にずぶずぶ沈んで、もがき苦しむ姿をさらすのは嫌だ。『聞き分け悪いんだ』と冷たい眼差しで見られたら、それこそ耐えられない。


「それなら、俺が手を引いて沈ませない」


 のんきな声をたどれば、階段を上る糸が目に映る。その糸の先、眼鏡の奥で目を細めて微笑む。

 私たちの糸はどちらが先に結んだのだろう。小指に桃色の糸が結ばれているのに気付いたときも、紅葉のように赤く染まっていくのもうれしかった。


「気付いてるかもしれないけど、結城が好きだよ」


 ようやく雑賀君の想いを聞けた。それから、もっと早く言ってくれたら、と自分勝手なことを考える。うれしいのは本当なのに、自分の気持ちが宙に浮いた状態になっている。


「悩み事増やしてごめん」


 そう言われて、告白されて返す沈黙と表情ではなかったということだけはわかった。結局私は自分のことばかりだ。


「違うの。そうじゃない。そうじゃなくて」

「もどかしいな」


 雑賀君は困ったように笑う。今言葉を尽くせない代わりに、せめて近くへ。糸をたぐるように私も階段を上りきる。2階の廊下には私と雑賀君以外人の姿はない。遠くで時折物音がするぐらいで、静かで、明るい。


「もう少し話していい?」と聞かれ、ひとつうなずく。このまま教室に戻っても勉強に集中できない。

 廊下の壁にもたれて雑賀君は小声で続ける。


「結城が小泉先輩に惹かれてるのは気付いてた」

「そんなに態度に出てた?」

「目が追ってた。結城は人をじっと見る癖あるから」


 自分が人の想いを許可なく見ている分、人からも見られていたことに気恥ずかしくなる。もしかしたら小泉先輩にも気付かれているのかもしれない。


「結城から近づく気はなさそうだったのに、いつの間にか仲良くなってて正直焦った。だけど、焦るほど失敗しそうで、中途半端なことしか言えなくて、結局今も結城を困らせて。でも、他の男ことで頭をいっぱいにさせるのも俺が嫌だった。ほら、自分勝手だろ?」


 焦っているなんて全然知らなかった。今だって雑賀君は飄々としていて、心が揺らいでいるのは私の方。

 静かな廊下に話し声が響いた。違うクラスの教室から男子たちが出てきて、こちら側に歩いてくる。


「結城」と呼ばれ、もう一度雑賀君と向き合う。


「俺なら結城に苦しい片思いなんてさせない。今はそれだけでも覚えてて」

「告白うれしかった。本当に」

「うん。教室に戻ろう」


 私はやっとそれだけを言えた。雑賀君はうなずいて凭れていた壁から体を離し、郁たちが待つ教室へと歩き出した。

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