14(2)

 しばらく経ってから小泉先輩が戻ってきた。ソファーに座って、背もたれに全身を預ける。


「体調悪いですか?」

「胃がムカムカする」

「お水持ってきました」

「ありがとー。まるちゃんが最近楽しかった話をしてくれたら治るかも」

「無茶ぶりですね」


 最近楽しかったこと、とつぶやいて考える。

 楽しかったことよりも、困っていることの方がすぐに思い浮かぶ。目下もっかの悩みといえば進路のことだ。調査票の提出が来週に迫っているのに、未来はまだ空欄のまま。


(私は何になりたいんだろう。何をしたいんだろう)


「最近気持ちが暗くなってて。だから今日、小泉先輩のギターと歌を聴けたことが楽しかったですね!」

「まるちゃんは時々意地悪だ」

「次は小泉先輩が話してください。楽しい話じゃなくてもいいですから」

「……さっき駅で母親を見かけた」


 小泉先輩と顔立ちが似たきれいな人だった。けれど、一緒にいた男の子は彼女を『お母さん』と呼んでいた。


「昔熱出て気分悪かったとき、あの人が父親じゃない男といちゃついてるところ見ちゃって。思い出したらまた気分悪くなった」


 私が苦手にしていた温度のない目。


「あの人が家を出てから会うこともなかったけど。隣に子どもがいたね」


 その理由が垣間かいま見えて、今はもう怖くなかった。


『円の言うその人も、恋愛を拒絶するような出来事があったのかも』


 明日香さんの言う通りだった。

 糸が足元にあるのは、まだ誰かと繋がりたいという気持ちが残っているから。真辺先輩の糸がそうであったように、踏みつけるだけでなく、繋がることだってある。

 付き合わなくても楽しければいいのも本当だろう。それは同時に、相手の気持ちが離れても約束してないからと言い訳できる、傷つかない予防線のようにも思える。

 まだ赤くないから大丈夫と、小泉先輩の足元にある赤い糸に混じって、自分の桃色の糸を見ていた以前の私と同じだ。


(臆病なんだ)


 私の目の前にいるのは、背が高くて、細い線だけれども丸みのない男の人なのに、うずくまった小さな子どもに見えた。


「私は、小泉先輩を置いていかない」


 驚いたように見開かれた目に微笑みかける。


「嫌いにならないし、好きにもならないから」


 抱きしめて傷を癒すことはできないけれど、ただの後輩として近くにいることはできないかな。

 小泉先輩は目を伏せて、息を整えるように深く呼吸をした。


「まるちゃんって変わってる」

「良い意味で?」

「良い意味で」


 拒絶されないのは、私が【友だち】じゃないから。小泉先輩を自分ひとりのものにしたがったら、あの冷たい目を向けられるだろう。

 私に嫌われたくないと言うくせに、私には好きになるなと言う。


 小泉先輩を好きになったら泣くことになる。


 だから私は、恋人ごっこが叶うとしても【友だち】にはならない。ただの先輩後輩の関係だとしても、大勢のうちのひとりになりたくない。



 ○



 店を出ると太陽がビルの向こうに沈もうとしていた。障害物の間に尾を引くように光の筋が見える。


「今日弾いてくれた曲、去年の文化祭でも演奏しましたよね」


 はじめから聞いて、サビの前のBメロがいいなと去年思ったことも含めて思い出した。


「うん。前話した、ギター教えてくれた人が作ってくれた曲。最後の文化祭だしもう1回演奏したいって、曲決めるとき全員同じ意見だった。まるちゃんは優斗の彼女知ってる?」

「店によく来てくれますから」

「優斗は果乃ちゃんにバンドのこと隠してたのに、果乃ちゃんが去年うちの文化祭に来てばれたんだ」

「隠さなくても上手なのに」


 去年の秋から気温が下がるにつれ、東先輩の小指に結ばれた糸が相手の小指の先へと赤く染まっていく過程を見守った。そして、冬の初めに赤い糸になった。


「まるちゃんって優斗には自分から話しかけるよね。バイトの後ごはん行くって聞いたことあるし」

「たまにごはんだけで、東先輩とは今日みたいに約束して遊んだことありません」

「……まるちゃんと遊ぶと元カノとか母親とか全然会ってなかった人に会うけど、これも能力で引き寄せてる?」

「偶然です」


 糸を手繰ると相手を引き寄せられる場合もあるけれど、ふたりのことは関係ない。否定してから、恋愛とは別の縁を結ぶ白の糸の話を思い出す。

 そういえば小泉先輩のお母さんの方を振り向いたとき、白いものが視界の隅に過った気がした。


(私が小泉先輩がこうなった原因を知りたがったから?)


 でも、明日香さんは白の糸が見える人はまれだと言っていたから関係ないはずだ。多分。


 大通りの信号を待ちながら、一度目を閉じてゆっくりと開く。

 アスファルトの上を糸が隙間のないほど埋めつくしている。桃色や白も混ざっているはずだけれど、夕陽に照らされたそこはまるで赤い絨毯のようだ。

 この景色を小泉先輩にも見せてあげたいと思った。

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