黄のスケッチブック

13

 玄関のインターホンが鳴った。録画のドラマを停止して、待ちかまえていた私はすぐに出迎える。


「仕事お疲れさま」

「どうも。兄さんたちは出かけてるの?」

「お父さんとお母さんは買い物。今晩予定なければ明日香さんもごはん食べていってって」

「うれしい。そうさせてもらう」


 明日香さんはお父さんの年の離れた妹だ。「おばさん」と呼ばれると老けたみたいで嫌だと言うので、名前で呼んでいる。


 他の人には見えない赤い糸のことを、明日香さんから教わってきた。

 例えば私たちは赤い糸を見るだけでなく、ほどいたり切ったり結んだりすることもできる。しかし、糸をいじっても、人の心を変えることはできない。

 ほどけそうになっていた友だちの糸を結び直したこともあるけれど、その子の彼氏の気持ちは戻らず、糸はすぐにほどけた。自分の糸もほどいたことがあるけれど、いつの間にか再び結ばれていた。


 私たちの見える赤い糸は、ただひとりの運命の相手を結ぶものではない。恋愛感情を映すので、色が変わらないものも変わるものもあるし、ねじれたり、ほどけたりする。

 糸の特徴とその意味、自分が見かけた糸について、わからないことがあれば明日香さんが答えてくれる。私にとって姉のような、先生のような存在だった。


 今日は明日香さんに聞きたいことがあり、仕事帰りに寄ってもらった。

 明日香さんをリビングのソファーに座らせて、早速質問する。


「赤い糸を踏む人を見たことある?」

「糸の上を通り過ぎるってことじゃなくてだよね」

「糸は踏まれて、ちぢれてる」


 明日香さんは少しの間考えるようにして「何人か思い当たるよ」と答えた。


「親の影響だったり、大事な人に裏切られた経験があったり、深い傷を負ったパターンが当てはまるかな。円の言うその人も、恋愛を拒絶するような出来事があったのかも」


 美術館で話してくれたときには、もう吹っ切れているように見えたけれど。3年生の教室で、赤い糸のことをくだらないと言い捨てた嘲笑が思い浮かぶ。


「それは」


 赤のネイルで彩られた指を差して、紅を引いた唇が弧を描く。


「先月まで桃色の糸だった相手?」


 私の小指には淡い赤い糸と、むらのある赤い糸が繋がれている。きれいに染まらないのは自分の感情を受け入れられていないことを表している。

 肯定の代わりに力なく笑う。複雑な心境であることは明日香さんなら糸を一目見ればわかる。

 明日香さんはそれ以上は何も聞かず、薄い水色の紙袋を差し出した。


「福泉堂の落雁らくがん買ってきた」

「ありがとう」


 福泉堂は明日香さん行きつけの和菓子屋だ。月ごとに種類が変わる落雁はいつもかわいい。

 水色の紙袋から深緑の無地の四角い箱を取り出す。蓋を開けるとクリスマスツリー、靴下、柊、ポインセチアの落雁が並んでいた。


「今月はクリスマスだ!」


 スマホのカメラで撮ってからひとついただく。いつもはどれを食べるか迷うのに、今日はすぐにポインセチアを取った。美術館で見た絵を、あの時間を思い出した。

 落雁は口の中でほろほろと崩れ、上品な甘さに心がやわらぐ。


「途中で赤から白に切り替わった糸の意味はわかった?」

「まだ本人に聞けてない」


 片思いであれば、想う側から想われる側へ赤から白のグラデーションになるのが一般的だ。けれど、その糸は途中でぷつりと色が替わる。明日香さんもその事例は見たことがないらしく、去年質問してから何も解明されていなかった。


「前も言ったかもしれないけど、相手が亡くなったら糸は切れるから、繋がってるなら糸の先にその人はいるはず。記憶喪失とか?」

「もしそうなら相手がってことだよね」

「今の適当に言ったから、あんまり真に受けないで」


 明日香さんは軽く言う。私は糸の特徴からあり得ない話ではないと思った。


「赤の部分があるなら、白の糸の条件も当てはまらないし……。意味がわかったら教えて。いっそ店にその子を連れてきてよ。相手もわかるかもしれないから」


 明日香さんなら、糸を触ればどれほど離れていても糸の先の相手がわかる。私にはそこまでの能力がなく、その相手が近くにいないということしかわからない。


「わかった。さっき白の糸って言った? 白だけの糸があるの?」

「親子とか、血縁を結ぶ糸。まれに見える人もいたみたい」

「他の色もあるのかな」

「うちの記録に残っているのは赤と白の2種類だけ」


 私たちが見ているのは伝承にある運命の赤い糸ではないけれど、赤い糸はたしかに実在している。もし黒や青の糸があっても驚かない。


「さっきの糸を踏んでる人の話だけど」


 靴下の落雁を食べて、明日香さんが話を戻す。


「その人へのびる糸が途中で消えて、はじめから糸を結ばない人もいる。だから糸が足元にあるのは、まだ誰かと繋がりたいという気持ちが残っている証かもしれない」

「最後はほどけてしまったけれど、小指に繋がってたときもあった」


 今は誰にも期待していなくても、いつか赤い糸が結ばれて、糸が切れないでほしいと願う人が現れるかもしれない。


『俺の糸は誰に繋がってるんだろう』


 再び聞かれても、私はもう答えられない。

 自分の糸の先が他の糸とともに踏みつぶされている光景は、想像でさえ苦しくなる。


辛気しんきくさい顔して、何悩んでるの?」

「付き合わずにいろんな女子と遊んでいる人を気になって、そのくせどうして告白してくれないんだろうって別の人にもやもやして、煮え切らない」


 私の小指から絨毯じゅうたんに垂れている2本の糸を、明日香さんは左右の手で1本ずつつまむ。


「タイプが全然違うね。でも、どっちもイケメン。円って面食いだったんだ」

「もー。人が悩んでるのにおもしろがって」

「失敗してもいいじゃない。今のうちから目を養いなさい」


 そう不敵に笑う、私の憧れの女性であり、 多くの人の恋愛相談に答える占い師でさえ、煮え切らない恋をしている。


「店長から来週デートって聞いた」

「あいつの奥さんかつ私の親友の墓参りデートね。帰りに和牛ステーキを奢ってもらう」

「私は明日香さんと店長にも幸せになってほしいよー」

「はいはい。ありがとう」


 明日香さんの小指に結ばれた赤い糸をつまみ、今頃カラオケ店で働いている店長に向けて「ヘタレ」とぼやいた。 

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