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電車の窓から、木々や芝生の緑に囲まれた大きな建物が見えてきた。この周辺は劇場や科学館、美術館といった文化施設が集まっている。
駅の改札を出て目の前に噴水のある広場があり、そこが待ち合わせ場所だった。
小泉先輩は噴水の縁に座っていた。離れた場所から見てもきれいな女の人たちと話している。
(帰りたい)
遅刻したと思われるのも嫌だけれど、美男美女の間に割って入る勇気もない。会う前からくじけそうになっているとスマホにメッセージが届いた。
[噴水の前で待ってる]
今着きましたと返信すると、小泉先輩はあたりを見渡す。駅の屋根の下にいる私に気付き、彼女たちに何か言ってからこっちに歩いてくる。私も小泉先輩の方へ向かった。
「お待たせしました」
「俺も今来たところ」
「さっき話してた人たちは……」
「あの中に元カノがいて、今科学館の体験イベントが人気だって聞いた。まるちゃんも行きたい?」
動揺しているのは私だけで、小泉先輩はこれからの行先を気軽に聞いてくる。
「小泉先輩はどっちがいいですか?」
「どちらでも。まるちゃんの行きたい方で」
「先輩の好きな絵を見たいです」
「うん。そうしよう」
女の人たちはまだ噴水のところにいて、その中でも芸能人みたいにかわいい人は私たちが横を通るときに手を振った。小泉先輩も手を振り返した。
私ももっと上手に化粧ができて、おしゃれな服を持っていれば。あの人たちに比べて自分がひどく子どもっぽく感じて、隠れたい気持ちになる。
広場を通り抜けて、科学館のある右側に多くの人が進むなかで、私たちは左側に進む。
改札を抜けるまで緊張していたというのに、今では元カノのことで頭がいっぱいだった。真辺先輩から聞いた話では、元カノにとって小泉先輩の方が浮気相手で、小泉先輩が彼女を作らない原因かもしれない。
「どうしたの?」
顔をのぞき込まれ、その近さに驚いて急ブレーキをかける。
「なんでもないです」
「なに?」
感情の読めない視線は私を捉えて離さない。
(そんな目で見ないで)
「小泉先輩はもう誰とも付き合わないくらい、元カノが好きだったんですか?」
どちらであっても、私たちはただの先輩と後輩だから関係ない。開き直って地雷を踏みにいったのに、いつ爆発するかと言ったそばから怖気づく。
「よけいなこと言ってすみません。行きましょう」
「引きずってないけど、無関係でもないから、どう答えようかと思って。聞かなくても赤い糸が見えるならわかるんじゃないの?」
糸は見えていた。冷静さを失っているのは私の方だ。
「さっき手を振ってた人の糸が、先輩の足元に落ちています」
「糸は、俺にだけじゃなかったでしょう?」
「……寄り集まって、遠くからだと縄のように見えました。それからあの人側の糸も、何本も赤く染まって結ばれています」
「どういう意味?」
「あの人自身にも好きな人が複数いるということです」
「相変わらず気が多いんだ」
小泉先輩は笑う余裕さえ見せた。
「まだうぶな男子中学生だったから、かわいい女子高生に声かけられて浮かれたわけ。あっちは他にも彼氏がいて、聞いてみたら俺のことも好きって。それほどショックじゃなかったから、俺もすごく好きだったわけじゃなかったんだと思う。堂々としてていっそ感心したぐらい」
卑屈になっているわけでも、強がりでもない。小泉先輩の中で元カノはすっかり過去になっているらしい。
芸能人に及ばないといえあれほどたくさん糸が結ばれている人を、そして、自分側にもたくさんの糸が赤く染まっている人を、この目で見たのははじめてだった。
「無関係でもないっていうのは?」
「元カノのことがあって、最初から付き合う必要ないなって思うようになったから。付き合わなくても、お互い楽しめればいいって。約束とか、期待とか、面倒はいらない」
平然と話す小泉先輩の一線は、周りの人たちの言葉では埋められないほど深い。
「好きだから、期待するんじゃないですか」
突き放すような言葉を聞く度に言い返したくなる。その理由は、わざわざ色が深まる瞬間を目の当たりにしなくても、わかっている。
親子連れが私たちを追い越す。どちらともなく再び歩きはじめる。
「まるちゃんはそんな気持ちになったことある?」
「ないです」
「文化祭で眼鏡かけた男子と歩いてたの見かけたけど、違うの?」
「雑賀君は友だちです」
本当は文化祭の日、雑賀君に期待した。
思い出す度恥ずかしくなるから早く記憶から消したいのに、
小指に結ばれた糸から目を逸らして、美術館の赤茶色の建物を見据えた。
○
入場券は常設展と企画展がセットになったものを買った。企画展の部分に書いてあるアメリカの画家の名前を、小泉先輩から教えてもらうまで知らなかった。
先に今日のメインの企画展に向かう。1階の企画展入口には、チラシにもなった湖畔の風景画が大きなポスターになって掲げられていた。そこでやっと美術館に来たんだ、と実感してわくわくしてきた。
はじめに企画展全体の解説の後、額入りの作者の肖像画に出迎えられた。
草原、街並み、おもちゃ箱。展示場の白い壁には水彩画が並んでいる。淡く美しい風景はどちらかというと現実味がなく幻想的で、それでいてどこかで見たことがあるような気がして懐かしくて切なくなる。
「水彩画ばかりですね」
「風景画と静物画が得意の画家なんだ」
内緒話の声量で話す。小泉先輩の言う通り、肖像画も時々交ざっているものの、並ぶ絵画は風景や静物が多かった。淡い色なのでぱっと見ただけではわからないけれど、絵をよく見ると細かいところまで描き込まれている。
「眉ひそめてどうしたの?」
「神経質な人そうだなって勝手想像していました」
「当たり。気難しい人だった話は有名らしい。だから、肖像画も親戚や友人の親しい人の絵しか描かなかったって」
ウケ狙いで言ったわけではなかったのに、小泉先輩は笑い半分で説明してくれた。
「どこを見てそう思った?」
「この街並みの絵だと石畳の形の違いとか、壁の汚れとか、よく見たらすごく描き込まれていて。でも、水彩画だからか、全然重さを感じない」
「観察力が鋭い人だったんだと思う。まるちゃんも目が良いんだね」
「視力はあんまりなので、目というよりも癖ですね」
「癖?」
「赤い糸の先をたどって、どんな人だろう、どんな気持ちだろうって想像するんです」
『よく見て。だけど、目に見えるものがすべてではないことも覚えてて』
訓練を積みなさいと、時々テーマパークやデパートなど人の多いところに連れ出された。
「ああ、それで」
小泉先輩が何かに納得したような口ぶりで言うから、「なんですか?」と聞き返す。
「内緒」
「気になります」
「俺は糸のこと気になるなあ。レベルアップするの?」
「企業秘密です」
「またそれかー」
次の展示室に移って、その美しさに思わず溜息をついた。
さまざまな種類と色の花が、白壁に美しく咲いている。解説を読むと、花のスケッチがシリーズとしてまとめられていた。背景を書かずに白いままに残している分、花の色彩が浮かび上がって見える。
小泉先輩はひとつひとつゆっくりと見る。私も小泉先輩にペースを合わせる。
企画展のはじめあたりでは多くの人がゆっくり見ていても、そのうちだんだんとペースにばらつきが出て、私たちの後ろを追い抜かしていく。でも、他の人のことが気にならなくなるぐらい、いつのまにか花畑に思考を
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