11
その次の週、本を棚に戻しながら誰かが図書室に入ってくる度にドアの方を確かめた。常連の顔ぶれがそろうと図書室の出入りも途絶えた。
小泉先輩が来ない。文化祭の前の週はバンドの練習があるからと事前に教えてくれたし、その日以外毎週図書室に来ていたのに。
午前にグラウンドで体育の授業に出ているのを窓際の席から見かけたから、学校にはいたはずだ。
(【友だち】に誘われたのかな)
一番高い可能性なのに、待っている時間とは種類の違う胸のざわめきにうんざりする。学校にいないか確認するだけ。喉も渇いたし、財布だけ持ってカウンターを出た。
途中、1階の渡り廊下の自動販売機で炭酸を買う。再び糸をたどってクラス教室のある棟に入ると、その糸の先は3年の教室のひとつにのびていた。
それよりも気になるのは、廊下にあったくすんだ色の糸だ。片方はあの教室から、もう片方は昇降口へとのびている。
見比べて、色の濃い方へと足を進めた。
昇降口の階段に1人座っていた。そのまま近づくと、艶やかな黒髪を流した背中がゆっくりと振り返った。
「結城さん」
「真辺先輩が見えたから」
泣いてはいない。ただ、切れ長の目元が赤くなっていた。
「隣座ってもいいですか?」と尋ねるとうなずいたので、間をあけて私も階段に座る。
「藤が他の子と仲良くするのが我慢できなくなって口出した。そうしたら、『無理ならやめれば』って。ひっぱたたいてきた」
「それは、ひっぱたたかれても、仕方ないです」
階段を
「ここで待ってみたけど探しにも来ないし、本当に終わったみたい」
真辺先輩だって理不尽だとわかっているだろうに、小泉先輩を責める言葉はない。
『その人はやめた方がいいと言って、本人もそのときはうなずくけど、のびる糸は変わらず赤いまま。理屈ではわかっていても、どうしようもないものなんだろうね』
明日香さんが占いのお客さんを例に赤い糸のことを教えてくれる中で、そんな話をしたことがあった。私はそのままならない感情に興味をそそられて、けれど他人事のように聞いていた。
背の高い男の子がTシャツとハーフパンツという格好で体育館の方角から現れた。こちらに気付き、進行方向を曲げて昇降口に走って来る。
「あいつ、こっち来てるよね」
「加速して来てますね」
男の子は私たちの前で止まり、荒い呼吸を整える。
「ランニング中じゃないの?」
「りぃ先輩、泣いてた?」
「戻れ」
「やだ」
「やだじゃない」
男の子は階段に座る真辺先輩と同じ目線になるようにしゃがむ。一見『待て』と命令されたみたいなポーズでも、実のところ言うことを聞く気はなさそうだ。
真辺先輩のことは彼に任せることにして、立ち上がって校舎の中に戻った。
渡り廊下への出入口を通り過ぎて、糸がのびている教室をのぞく。3年生の教室なので、あの人以外に誰かいたら入りにくいと思ったけれど、杞憂に終わった。
「小泉先輩」
「あ、図書室行けなくてごめん」
ひとりで椅子に座った人影は、私に気付いてゆるりと笑顔を浮かべる。謝る相手は私じゃないと言いたくなるのを
「それほど冷たくないけど、冷やしてください」
炭酸のペットボトルを手渡す。「ありがとー」小泉先輩は赤くなった頬に当てた。
「まるちゃんから来るの珍しい。もしかして理緒に会った?」
「会いました。会いに行かなくていいんですか?」
「もう無理だって言われたから」
それは違う。だってまだ小泉先輩へと糸がのびている。
次の瞬間、はらりと小指から糸がほどけて床に落ちた。
「……小泉先輩は、赤い糸を信じますか?」
「運命のってやつ? まるちゃんでもそんなこと言うんだ」
「私でもって、どういう意味ですか」
「そういう夢見がちなこと言わなさそうと思ってた。赤い糸かー……。くだらない」
吐き捨てるように言って、頬からペットボトルを離す。
「もしも本当にあるなら、俺の糸は誰に繋がってるだろう」
「誰とも結ばれていません」
ペットボトルのラベルに向けられていた視線が
「私が見える糸は、運命の人を結ぶものとは違うけど、小泉先輩にのびる好意はたくさんあるのに、自分で踏みつけているから」
床に散らばる赤い糸と真辺先輩の赤い目元がやるせなかった。
小泉先輩に対する腹立たしさから言い負かしたいという衝動に駆られ、家族しか知らない秘密をばらしていた。
廊下の方から誰かの話し声が聞こえる。誰が入って来てもおかしくない状況で、私たちはお互い身動きせず見つめたまま、しばらくの間教室に沈黙が落ちた。
「ふはっ、あはは」
小泉先輩は突然笑い出した。私が
「信じてもいい気になった。みんなの糸見られるの?」
「企業秘密です」
「まるちゃんにも糸が結ばれてる?」
「プライバシーです」
「えぇー」
今は図書室ではないから騒がれたって構わない。思う存分拗ねてもらう。
頭が冷えてきたのと比例するように、感情任せに能力のことを話してしまった後悔が押し寄せる。
「自分から言っておいてですけど、このこと他の人に言わないでください」
「赤い糸が見えること?」
「はい」
「わかった。言わない」
小泉先輩は間を置かずに約束した。まじまじと見つめると、「なに?」と尋ねられる。
「あっさり約束してくれたのでびっくりしました」
「俺もだいぶクズだと思われてたのに驚いた」
言いふらされるとは思わなくても、もったいぶられたり、別の交換条件を出されたりするかと思った。
「逆だったらまるちゃんもこう言うでしょう」
これを信頼と受け止めるのは、思い上がりだろうか。
「ありがとうございます」
「俺もジュースありがとう。ぬるくさせちゃってごめん」
やっぱり謝る相手を間違えていると思いながら、「先輩にあげます」と答える。思わぬ出来事との遭遇で喉の渇きはなくなっていた。
「じゃあいただきます」と言うものの、ペットボトルの蓋を開けずに、またラベルを眺める。
「俺のこと最低だと思う?」
「共感はできないです」
「嫌いになった?」
息をのんだ。私の返事がなくても小泉先輩は話し続ける。
「俺を好きって言った口からいつも無理とか最低とか言われる。だけど、まるちゃんには嫌われたくないなあ。――だから」
台本に書いてあるかのようにそこで一呼吸置き、きれいな顔が笑う。
「俺のこと、好きにならないで」
「受け身みたいに言ってますけど、自意識過剰です」
喉の奥に熱いものが込みあげるのを悟られないように、私も炭酸のペットボトルを見ながら茶化した。
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