03(1)

 金曜日の夕方は、次の日から休みだと思うと気分が上がる。けれど、今日に限っては明日のことを考えると憂鬱だった。


(同級生? 同じ職場の人? でも、まだ結婚するって聞いたわけじゃない)


 恭くんのお嫁さんになるのが小さい頃からの夢だった。今までも恭くんに彼女がいたときもあったけれど、ここ数年はいなかった。だから間に合うんじゃないかって、勝手に思っていた。


 部活を終えて、放課後すぐの時間帯よりも人口密度が低いバスに揺られて駅に着いた。

 仕事帰りの人で混雑する駅を重い足取りで歩き、視界の端を過った姿に足を止める。好きな人を見間違うはずがない。


「恭くん」


 恭くんは改札の近くにいて、私に気付いて手を振った。私も振り返そうと手をあげ、止めた。

 さっきは恭くんの陰になっていて気付かなかった。その隣には女の人がいた。

 恭くんが話しかける。女の人が顔をあげる。ふたりが話しながらこっちに来る。その過程がスローモーションに見えた。


 女の人が私の目の前に立った。


「こんばんは」

「こんばんは……」


 あごのラインに沿ってまとまった黒髪、少し目尻が下がった奥二重の目。少し緊張した面持おももちであいさつする女の人。ううん、雰囲気は落ち着いているけれど、恭くんより私の方が年の近い女の子。


「明日連れてくけど、こちら、村田むらたしおりさん」


 恭くんが当然のように旅行バッグを持ってあげているのに気付く。


「車で来たから、果乃も乗ってく?」


 いつもなら、恭くんだけだったなら、乗せてもらっていた。今、平常心でふたりと一緒にいられない。

 心がぐちゃぐちゃで、言葉が喉をつかえて出て来ない。


(早くここから離れたい)


「果乃」


 雑踏ざっとうをぬって耳に届いた自分の名前。その声は恭くんのものじゃない。

 高校の制服を着た、あのカラオケの店員がいつの間にか近くにいた。


「こんばんは」と恭くんたちに言って、私を見る。「果乃、もう帰る?」

「ううん。恭くん、もうちょっと友だちと遊んでいくね」

「遅くならないうちに帰るんだよ」

「うん。また明日」


 うまく嘘をつけただろうか。栞さんにも頭を下げて、行先もわからないまま店員の後をついて行った。



 ○



 正面の大型テレビでは、MCがアーティストを紹介する映像が流れている。

 カラオケ店の少人数用の個室。直角のソファーにテーブルを挟んで、店員ことひがし君とふたりきり。脳が現実を受け入れないようにしているのか、頭がぼんやりしている。


「さっきの女の人、恭くんの彼女?」


 東君まで「恭くん」と馴れ馴れしく呼ぶ。今は突っ込む気力もない。


「多分。でも、家族だけじゃなくて、隣の家にも紹介するって、将来のお嫁さんかも」


 ふふっと力なく笑うと、「不気味」と身も蓋もない言葉が聞こえた。


 東君は友だちと遊んだ帰りだったらしい。私の方は、説明しなくても状況をつかんでいるみたい。写真で恭くんの顔を見ているし、私が恭くんのことを好きだと知っている。仮に状況をわかってなくても、私自身冷静に説明できる心情じゃなかった。


「恭くんのこと、保育園の頃から好きだったんだあ」


 七夕の短冊に、『恭くんのお嫁さんになりたい』と書いた。東君の返事はないけれど、その無言が重いと訴えているように思えるのは被害妄想かな。


 壁の向こうから微かに歌声が聞こえてくる。この空気にそぐわないノリのいい明るい曲。


「それってほんとに好きだったわけ?」


 私も歌おう。現実逃避して、リモコンを取ろうと立ち上がったときだった。

 はじめ言っている意味がわからなかった。


「どういうこと」

「そんな小さい頃から、恋愛感情と憧れを区別できんの?」


 その言葉を引き金に、恭くんたちと会ってからずっと私の中で張りつめていた何かが、ぷつんと切れた。


「あなたに何がわかるの」


 ぐっと手のひらを握り締める。


「10年間、恭くんが大好きで、望みがない今だって」


 自分の言葉が胸に刺さる。そう、きっと望みがない。

 彼女とも付き合っているとも紹介されてない。だけど、恭くんのあんな顔、初めて見たんだ。

 それでもすぐに現実を受け入れることはできなくて。


「会ったばかりの人にわかるほど、簡単な気持ちじゃない!」

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