第3話

 午後からずっとぼんやりしていて、すっかり日誌のことを忘れていた。

 月曜日はバスケットボール部が休みなのもあり、放課後、今日の授業の内容を思い出しながら空欄を埋めていく。

 他に人がいない静かな教室に、後ろから引き戸を引く音がした。振り向くと高橋がいた。今日はサッカー部も休みのはずなのに。


「忘れ物?」

「まあ、うん」


 歯切れの悪い返事をして、高橋は円の席に窓を背にして横向きに座った。


「まだ日誌書いてないじゃん。ちゃんと出せよ」

「とりあえず高橋に言われたくない」


 夕暮れの教室にふたりきり。軽口をたたくものの、告白した日と重なって落ち着かない。高橋も何も言わない。あの日より少し大人びた顔が夕陽に溶けてしまいそうだ。

 高橋が日誌から顔をあげる。目が合ってどきっとする。何か、話題を。


「高橋、好きな人いるの?」


 やっぱり私はばかだった。自分で自分の首をめてどうする。

 元通りになったといっても、お互いこういう話を避けていた。ほら、高橋も固まっている。


「なんで知ってんの」

「円に聞いた」


 やっぱりいるんだ、と胸が苦しくなる。そんな自分が嫌になる。私はまだどこかで、自分を好きになってくれるんじゃないかと期待していたらしい。

 もうやめたい。期待するのも、高橋の言動に一喜一憂いっきいちゆうするのも。


「田中はいるの?」


 自分が聞かれたから、流れで私に聞き返しただけだろう。知ったところで高橋にはどうでもいいことでしょう。そう勝手に悔しくなって。


「いる」


 好きだと言ってしまおうか。半分ヤケになって思う。もともとただの友だちに戻れたわけじゃない。今だって私の気持ちは友情じゃない。ふられたら今度こそ立ち直れない。でも、諦められるかもしれない。


(でも、高橋と話せなくなるのは嫌だ)


 何度も考えてきたことをまたぐるぐると考えていたから、聞こえた言葉を理解するのに遅れた。


「俺は、もう遅い?」


 高橋は昼休みのときと同じように真っ直ぐ私を見ていた。言葉の意味をつかめないでぼうっと見つめると、その視線を日誌に落とす。


「田中は女子だけど話しやすくて、気の合う友だちだと思ってたから、あのときはびっくりしたっていうか、付き合うとかまだよくわかってなかったんだ」


『あのとき』は多分、私が告白した日のことだろう。高橋の笑い方は苦しそうで、私まで胸が詰まる。


「なのに、それから田中がほかの男子と仲良いと気になって、誰かと付き合ったら嫌だって自覚した。でも、田中は告白する前と態度変わらないし、もう俺のこと好きじゃないんだって、このまま友だちでもいいかって思ってた。だけど、何も言わないまま後悔したくない」


 そんな顔、高橋には似合わない。晴れやかな笑顔が、私はずっと、


「田中、もう一度俺を好きになって」


 ずっと好きなんだ。


「そういうふうに見れないって言ったくせに」

「本当にすみませんでした」

「こっちはすごく緊張してたのに、ノート返しだすし」

「過去に戻れたらあの日の自分殴りたい」

「好きでいてもいいの?」


 うなだれていた頭が勢いよく上がる。そして、私の好きな笑顔を浮かべた。


「好きでいてほしい」


 ふられても、友だちに戻ったふりをしても、過去形になんてできなかった。

 高橋が誰を好きになっても私には関係ないと、何度自分に言い聞かせただろう。もう意地を張らなくていい。気持ちを押し込めなくていい。うれしいのに、気を抜いたら泣いてしまいそうだ。


 高橋は手を首に回す。照れているときの癖だ。


「結城からまだ田中が教室にいるって聞いて来たんだけど、ヘタレって怒られた。でも、その通りだから言い返せなかった」

「私も意地っ張りって呆れられた」


 顔を見合わして、同じタイミングで笑う。

 帰ったら円に電話しよう。ありがとうと言って、次は円の好きなガトーショコラを贈ろう。今度は高橋の分も作ろうかな。


「日誌あと少しだから、待っててくれる?」

「うん」


 夕陽で橙に染められた教室は、記憶の中よりもまぶしく感じる。同じように見えて、だけど確実に何かが変わっていた。

 続きを書こうとボールペンを取った。


 end

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