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第35話

「……」


「どうした? 寒いのか?」


「……あ」


「あ?」




(ダメダメ! もしも変にこじれたら……私の九年間の苦労は、泡となって消え失せる!)


(何も誰も邪魔が入らない、こんなチャンスは滅多にないよ! がんばれ、私!)


(ばかね。今の特権を、手放したいの? もしかしたらうまくいくかもしれないけど、失敗するリスクのほうがはるかに高いのに……)


(でも! チャンスじゃないの?!)


(気まずくなったらどうするつもり?!)




相反する気持ちが、天使と悪魔になって心の中で戦っている。


引き留めてはみたものの、やはりリョウには、勇気が足りない。


心理的な二十センチの高低差は、越えられそうなのに越えられない。


口をパクパクさせながら、二日酔い気味のポンコツ頭をフル回転させる。



「あ……甘夏! 甘夏じゃないの? あれ!」


リョウは引きつる笑顔で今まで眺めていた背後の果樹園を指さした。


「いや、ナントカみかんって言ってたから違うと思う」


呆れたようにハルが首をかしげる。リョウは内心ほっとする。



(危なかった……)




午後三時過ぎに宿に戻ると、ロビーで葛西が初老の夫婦らしき人たちと歓談していた。今日宿泊予定の一組らしい。


「おかえり! 島めぐりお疲れ。レセプションに声かけてくるみが作ったおやつ持って行け」


鍵をもらいに行くと、葛西から言付かっていたのか、少しだけ待たされてお茶セットのトレイを渡された。



チョコレートシフォンと紅茶のセット。



お茶にしながらまた画像の編集と取り込み作業をする。


リョウはソファで伸びをした。


「こんなに何もしない平和な時間、学生の頃以来かもね」


「お前のところには、あのうるさいやつから連絡入らないのか?」


スマホをいじっていたハルがちらりとリョウを一瞥する。誰のことかはすぐにわかる。


「いや、結構着信来てるけど、ぜんぶ未読スルーしてる。どうせくだらないことしか言ってこないから」


ハルは笑う。



「確かに。仕事でやることはもうやったから、俺もシカトしよう」


「それがいいよ。来る前に、どーんと使って来いよって法人カードくれたけど、そんなもん使う場所じゃないって知ってて渡してきたんだよ、あの人」


「あいつらしいじゃないか」


「ほんと、ずるがしこいよ。高校の頃からああだったの?」


「まぁ、本質は変わらないだろうけど、メガネかけててシャイで、もっとオタクっぽかったな」


「あはは。うける。今と対極」


「明後日からまた毎日あいつを見ないといけないな」


「あと一日あるから、楽しいことを考えようよ」


「今夜は晴れるみたいだから、シンイチロおすすめのところに行ってみようか?」



ハルの提案にリョウは目を見開く。


「いいね! 夜になったら行ってみよう!」



それは、宿の裏手の専用の小道の先にある、透明度が高い池のことだ。

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