第33話

「俺はとっさに便座を上げてお前の髪を手に巻き取ったよ。結果としては、間一髪間に合った」


「それは……お世話様でございました……」


リョウは恥辱に耐えきれず、うつむいて縮こまる。


「でも、服とか髪の毛が汚れたんだ。それでもう人間でいるのはやめたいとぐずり始めた」


「……」


リョウは頭を抱えた。



「汚れた服と髪のまま浴槽に入ろうとしたから、服は脱がして髪も洗ってやった。お前を寝かせた後は、汚れた服を洗濯までしたんだよ」


「はは……この前のケアハウスのホームページ作成のときの、入浴介助の記事が役に立ったのね」


「まだ終わりじゃないよ。寝ぼけてぐずぐず泣き出して、お父さんを探しに行かなくちゃとか言い出した……かと思えば、るいごめんね~とか何度もつぶやいてじたばたと暴れだした」


「えええ?」


リョウは驚いて絶望的な表情でハルを見た。



ハルは心配そうにリョウを見つめていた。


「寝ぼけるなんて、今までで初めてだった。お前はいつも、死んだようにおとなしく眠るのに。父親や弟のことも、普段は話題にも出さないくせに」


「……」


「ついには起きだそうとするから、拘束してたらそのまま眠ったみたいだな、ということで終わり」


「それは多大なるご迷惑をおかけいたしました」


リョウは頭を下げて心からの謝罪をした。



ハルはテーブル越しに人差し指でリョウの頭を突いて、彼女の顔を上げさせた。


「べつに、謝らなくていい。俺だってお前には、弱みをさらけ出してるし」


穏やかな笑顔。


ハルの表情には怒りも失望もないことを認め、リョウは心から安堵する。そしてとても、切なくなる。



長い付き合いだから、ハルの性格はよく知っている。


彼はつき合っている相手が酔っぱらっても、介抱はしない。さすがに外で飲んでいる時に置き去りにはしないが、タクシーに乗せて終わりだ。


そこで相手がひどい、冷たいと言っても彼は気にも留めない。


涼しい顔でやりすごすだけ。


マインドゲームは面倒だからと、彼の気を引くために怒ったり拗ねたりする女性をなだめることはない。


そうしていつも、短い関係を繰り返す。



ハルが世話を焼くのは、リョウだけ。九年間で、気づいたこと。


でもそれはきっと、リョウがハルにとって役に立つ存在だからだとリョウは思う。



(間宮さんのことも、世話を焼くのかな……?)



いやきっと彼女は完璧な人だから、恋人に対しては情けない姿は見せなそうだ。


考える必要のないことをふと考えてしまい、どろりとどす黒い濃い煙のような感情が胸をよぎる。


そうしてまた、自己嫌悪に陥る。



「怒ってないって言ってるのに、暗い顔するなって。きっとお前も疲れてるんだな。今日は午前中にシンイチロと打合せするだけだから、午後はのんびりできるよ」


くしゃくしゃと頭を撫でられて、はっと我に返る。


口角を引き上げてうすく笑みを返す。


ぐらぐらと、心が揺れる。



この人が好き。


この人がいない人生なんて、考えられない。



でも……



永遠に、私のものにはらない。



なのに絶対に、失うことなんて、考えられない。



だから……



絶対に気持ちを、悟られてはいけない。

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