第2話 本能? 情熱? 欲望?

2-1

第6話

水曜日、午前7時11分。


スマホが鳴る。



「おはよう」


聞き慣れた、とても疲れた声。私は頭の中でミラノの現地時間を計算する。夜中の12時を回ったところ。


「おはよう。そっちは夜中でしょ。まだ寝ないの?」


身支度は終わっている。7時半に出勤するまで私がゆっくりとコーヒーを飲むことをもちろん知っていて、駿也はかけてきている。


「うん……ちょっと。疲れすぎて眠れないんだ」


声がかすれている。相当疲れているみたい。


「明日、そっちを発つでしょう? 明後日の昼頃には到着するよね。金曜日か……平日だから、迎えに行けないけど」



くすりと、笑い声が聞こえる。


「いいよ。俺は直帰だから、夕方うちに来て」


「うん。なにか作ってあげる」


「やった。和食!」


「わかった。2週間も海外にいたら、恋しいよね」


「うん。朔に会いたくてしかたがない」


「えっ? 和食が、って意味……」


あはは、と笑い声。


「本当、かわいいやつ。疲れが吹き飛んだ。それじゃあな、金曜の夕方」


「気を付けて帰ってきて」




また、からかわれた。


嫌な気は、しないけど。


マグを洗って家を出る。金曜日は何を作ろう? 筑前煮? ステーキ丼? 豚の生姜焼き? 銀ムツの西京焼き?


副菜とデザートまで献立が決まってきたころに会社に着く。


秘書室で本日のスケジュールを確認していると、早くも専務から呼び出された。




「おはようございます」


ぺこり。


挨拶してデスクへ向かうと、私は淹れたてのコーヒーを置いた。


「おはようございます」


PCでなにやら作業していた専務は顔を上げてにっこりと微笑み、挨拶を返す。本当に、部下にもとても柔和で親しみやすい人だ。


窓から差し込む朝のひかりの中、色素の薄い髪の際が、きらきらと金色に輝いて見える。今日もやはり王子様だ。グレイのシンプルなスーツも、専務が来ているととても品よく優雅に見える。ブルー系のシルクのタイは、日ごろの感謝を込めて私が専務の誕生日に贈ったものだ。


「山野井さん、急で申し訳ないけど、土曜まで社長の代わりに北海道に出張に行かなくていけなくなったんだ。今日のできるだけ早い便と、札幌のいつものホテルの予約をお願いします。予約が取れ次第、向かうことにします」


「はい、承知いたしました。直ちに手配いたします」


ぺこり。


専務のデスクのはす向かいにある、自分のデスクに座りPCを起動する。


ごめんね、駿也。日曜の夜にご飯作るね、と頭の中で謝る。あとでメッセージ入れておかなきゃ。起きて読んだらがっかりするだろうな。



そう思いつつもキーを高速で叩き続け、申しつけられた業務をできるだけ迅速に遂行する。


飛行機もホテルも幸運にもすぐに予約が取れた。午後3時の便。こういう急な出張のために、お泊りセットは会社のロッカーに入れてある。ちなみに、地方へ出張することも多いので薄手・厚手のコートも置いてある。


この2年、努力して自分の能力の限界値を超えた私は、結構ましな秘書になってきたと思う。


お昼は空港でとりましょう、という専務の言葉で、急いで本日の予定をリスケして午前のうちに会社を出る。運転手が車を回してくる合間に、こそっと駿也に謝罪メッセージを送る。


  ≪日曜の昼に帰るから、夕飯は一緒に食べようね。≫


副社長は急遽、中東からのVIPの来客の接待に行かなくてはならなくなったらしい。標準アラビア語が流暢なので、王族にも知り合いや友人がいるのだ。VIP接待が入り込んだために、副社長の業務が専務に、専務の業務がリスケされたり常務の業務になったり……とスライドしたのだ。


今回、副社長が進めていたのは、北海道の個人ワイナリーの経営する醸造所のクラフトビールを、ある会員制のホテルチェーンのバーに置く事業。そのワイナリーの経営者は副社長の大学の同期だそうだ。



空港からタクシーで市内へ向かう間に、返信が届いた。


  ≪了解≫のあとに(泣)の絵文字が一つ。



「気分でも悪いですか?」


隣に座る専務が、心配そうに言う。


「いいえ、大丈夫です!」


私ははは、と笑顔を見せる。



翌日はほぼ一日中会議、弁護士も合流して事業計画の法的な確認、醸造所隣接のレストランで接待を兼ねたランチ、工場とワイナリーの見学。金曜日はゴルフ接待とオーナーによるワイナリーでのパーティ。


土曜日は副社長が友人のオーナーと釣りに行くのに予備日としてとってあったらしく、何もすることがなかった。急ぎで終わらせたい仕事があると専務が言うので、一日早く帰ることになった。私は内心、やったー! と叫んだ。



幸いにも始発に空席がたった二つ。エコノミーでも専務は文句ひとつない。ほんとうにほんとうに人間ができてる。その寛大さ。手を合わせて拝みたくなる。


「今日は嬉しそうですね」


狭いエコノミー席でも天使のような微笑みを見せる専務。尊い。ほとんど満席の機内、周囲の女性たちからの秋波をものともしない。機窓から差し込む光が後光のよう。鴨の群れの中の白鳥だわ。


「はい。一日早く戻れるので。あの、実は昨日、圷さんが帰国したので……」


鴨の一羽である私が、ふへへと照れ笑いをしながらもじもじと答えると、白鳥である専務はすこし目を見開いてああ、とうなずく。


「確か何週間か、イタリアに出張に行かれていたんですね」


はい、と首を縦に振ると、専務は申し訳なさそうに眉を下げた。


「だから来た時に元気がなかったんですね。今回は副社長の急遽の代理業務でしたので、言ってくだされば同行は麻生さんにお願いできたんですが」


「ええ? いえ! そんな、仕事は仕事ですから! たとえブラジルにでも南極にでもお供いたします!」


ふ、と専務は微笑んだ。この2年でずいぶん免疫はできたけど、相変わらずの破壊力。偶然、通路アイルをゴミ回収に歩いてきたCAさんが目にして、手にしていた乗客の使用済み紙コップをぽとりと取り落としてしまった。


「山野井さんには、いつも感謝しています」


「私は、専務の寛大さにいつも感謝しております」


ああ。私はとても上司運がいいに違いない。

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