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第5話

「朔。結婚しよう?」





――あれから2週間。


感動は……しなかった。


正直、「ツモった!」と思ってしまった。


一応は「はい」と小さく答えたから、駿也はとても嬉しそうだったけど。


断る理由がなかったというか。




駿也とは一方的に押し切られて付き合いだしたけれど、2年も一緒に過ごしてきたし、これといった不満もない。


生徒会長とかサークルのリーダー的な信頼されてみんなを引っ張っていくカリスマタイプの人は、目立たないことで安心する私のようなモブキャラ的な人間には、きっと合わないだろうと思っていた。


でも、付き合い始めてから何か強引だったり、不快なことを言われたりされたり神経を逆なでされたりするようなことは一度もなかった。


それどころか、いつでも私のことを気にかけてくれて、とても大事にしてくれている。


3歳しか違わないのに、7,8歳くらい離れているような安心感があるし。


翔ちゃんと飲みに行っても嫌な顔はしないし(翔ちゃんには同棲中のカレがいることは言ってある)、苦手な人のあしらい方とかの対人関係のアドバイスとかもくれる。


駿也のような人は、私のこの先の人生にはもう現れないと思う。私が時々、ひとりで過ごしたいことも理解してくれて、落ち込んだ時は慰めるかそっとしておくかのさじ加減もとてもうまい。そう、この2年間、私はとても居心地がいい日々を送っているのだ。



駿也とこの先も一緒にいることには、あまり不安を感じてはいない。でもそれが、ずっと付き合ったままでいるのか法的な伴侶になるのか違いを求められると、私は不安にさいなまれる。


彼と結婚することが嫌なのではない。


「結婚すること」が、不安でたまらないのだ。




私にはトラウマがあるから。


父と母はまだ学生の時に、一時のお互いへの燃え上がった恋愛感情を永遠のものとするべく、周囲の忠告すべてに耳をふさいで勢いで籍を入れた。そして在学中に兄と私が生まれた。母は大学を休学して、家事と子育てに奮闘した。父は博士課程まで進み、その後はそのまま大学に准教授として残った。


兄と私は双子なので、二十歳そこそこのついこの前まで学生だった母には、子育ては大変だったと思う。


だからと言って彼女を許せるわけではないけど……私たちが4歳の時に、母は父と私たちと離婚届を置いて家を出て行ってしまった。


その後、私たちは小学生になり手がかからなくなるまで一時いっとき、父の両親に預けられた。



情熱的な恋物語は、結婚でハッピー・エヴァー・アフターめでたしめでたしになることはなかった。


ほらね、と周囲が父に言った。



「彼の妻として、子供たちあなたたちの母としてよりまず、私として、自分自身のためにやってみたいことがたくさんあるの。ごめんね。あなたたちのことが憎いとか嫌いとかではないのよ」



母は兄と私を抱きしめてそう言った。その背後には、父が呆然と立ちすくんでいた。まだ4歳だったのに、私は母の言ったことを、意味は分からずともほとんど正確に覚えていた。


その言葉の真意は、中学生になっても高校生になっても、理解できなかった。母が父と恋に落ちて周囲の反対を押し切って籍を入れ、私たちを生んだ年になって、ちょっとだけわかってきた。


19や20くらいで恋に落ちるのは素敵だけど、そのくらいの年ですべてを手に入れるのは自分の器が不十分過ぎる。それができる人もいるから、彼女が未熟だったということだけで私たち家族を捨てた行為は正当化できないと思うけど、同じ年頃になってみてもやっぱりよくわからない。


彼女は、恋愛だけしていればよかったのだと思う。やりたいことに挑戦して、失敗や挫折、喜びや充実感を経験して、自分の器が広がって十分な余裕ができたときに子供を持つべきだったと思う。


彼女が私たち家族を捨てて今はどこで何をしているのか、私はよく知らない。父は知っているかもしれないけど、私は訊かない。兄も関心はないだろうけれど、それについて話したことは一度もない。だから私は、父と兄が母をどう思っているのかはわからない。


私は……


もしも一人っ子だったら、そんなひとでも母を恋しがったかもしれない。


でも保育園でも幼稚園でも小学校でも兄がいつも一緒にいたし、授業参観日は父が来てくれていたし、母の日の絵を描くときには父と兄を描いていたし、周りから純粋な同情を向けられても母がいないことは事実だったから悲しくなったり腹が立ったりしたこともなかった。


母がいないことは私にとっては当たり前のことだったから、別に恨んでも憎んでもいない。


何の感情もないけれど……


心の中に大きな底なしのくぼみができていて、そこには水を入れても土を入れても泥を入れても、何を入れても埋めることができない。




「はい」と答えれば、あとはすべてが順調に進んでいくだろう。


それでいいのだとは思う。


でも……


私たちは「結婚それ」についてちゃんと話し合ったことがないから、駿也がどんな家庭を望んでいるとか、私が結婚後も働きたいとか専業主婦になりたいとか、住居はどうするとかもろもろのことがまだ不透明だ。


結婚を決めてから話せばいいかもしれないけれど、もし決めた後でお互いにそうしても納得できない事柄ができてきたら、折り合いを見つけて妥協しあうのか、どちらかに合わせるのか、そんなことを考え出すと限りなく心が沈んでくる。


両親が結婚した時、父もまだ未熟な若者だった。だから母の不安定な心を感じ取り、寄り添ってあげることができなかったし、そうできる余裕もなかったのかもしれない。


きっと駿也ならそんなことはなく大丈夫だろう。大丈夫だろうけれど……


これでいいの?


自分の中で自分が問いかけてくる。


わからない。


私にはよく、わからないのだ。

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