第129話

「—―レオ」


 私のつぶやきにレンは顔を上げた。


「なに」


 当然のように答える彼に、私は少しあきれて目を大きく見開いた。


「あなたの愛称。子供のころは、レンじゃなくてレオだった?」


 彼は肩をすくめる。


「小さいころはよくレオって呼ばれてたな。両親は今でもそう呼ぶ。レオでもレンでもどっちでも同じだろ?」


「子供のころは……髪の色がもっと明るかった?」


「そうだな。十歳ちょっとくらいまでは明るい銀だったかな。目の色ももっと明るかった」


「……」


「なんだよ」


「私たち……小さなころに一度会ったよね? ここで……」


 レンは柔らかく目を細めた。


「ああ。思い出したのか」



 私たちは今、ラルド卿の領地の赤いけしの花の野原にいる。丘の上の大きなマロニエの木の根元。幹に寄り掛かったレンに寄り掛かり、黄金の麦畑やはかなげな赤い花たちを私は眺めていた。


 私たちはラルド卿と夫人に会いに来たのだ。彼らは温泉のある保養地からここに向かっていて、私たちのほうが先に到着したので、あたりを散策していた。


 赤い花の野原を眺めていた時、ヴィヴェカ本人も記憶のかなたに忘れ去っていた、たった一日だけの幸せな記憶がふいによみがえってきた。


 あの少年はレンだった。私が七つなら彼は十一歳。戦場を渡り歩き始めるちょっと前だったのね。


「あなたは私のことを知っていたんでしょ?」


「ああ。親父たちが勝手に決めた俺の婚約者だってことは聞いてた。こんなちっちゃな女の子が? ってちょっと呆れたんだ」


 私はくすくすと笑った。


「そりゃあ、七歳なら小っちゃくて当たり前じゃない? あなただって、ひょろひょろで華奢な子だったでしょ?」


 レンはふっと笑って私の頭にキスを落とした。


「ほんの少し、一度だけ一緒に遊んだだけだったのに、あれから戦場でもよくあんたのことを思い出したな。あの頃はちょうど母親を亡くしたばっかりで、あんたはぽさっとしてたっけ。でも俺と遊んでいる間は、ずっと楽しそうに笑ってた」


「楽しかったからよ。あんなに楽しかったのに、いつのまにか忘れてたわ。あのあと父が再婚して、つらい日々が続いたからかな」


 はは、と気の抜けた笑みを漏らすと、レンが私を背後から抱きしめた。彼は私の肩に顔を載せる。


「知ってたら、うちの親父も俺も、どうにかしてやったんだけどな」


「しかたないでしょ」


「あんたが幸せならそれでいいと思ってたんだ。でもあんたはその時もそこから抜け出せてからも、湖に飛び込むくらいそうじゃなかったんだな」


「でも今が幸せだから、いいのよ」


 私を抱きしめるレンの腕にぽんぽんと触れた。


「一度手放さなきゃいけなかったあんたが、今や俺のそばにいるんだ。一時だけじゃなくて、これからずっとあんたに幸せだと言わせることができるように、俺は努力し続けるよ」


「それじゃあ私も、あなたが幸せでい続けるように頑張るわ」


「俺に気に入らないことがあったら、ブチ切れてもいい。それでも、あんたの望みはできるだけかなえてやる」


「今までも、かなえてくれてるじゃない」


 私はくすくすと笑った。



 そうね。


 王宮では自分の意志を抑えて、意思とは関係のない毎日を送っていた。でもこれからは、私はレンとたくさんケンカをして、たくさん感情を分け合って、お互いを尊敬して生きていきたいと思ってる。


 彼に幸せにしてもらう代わりに、私も彼を幸せにしなきゃね。



 見初められて一方的に幸せを与えられる子供シンデレラのヴィヴェカはもういないの。


 私はそっと手を伸ばして肩に載ったレンの頬に触れ、首を伸ばして彼にキスを落とした。



 さらさらとそよ風が丘を吹き抜けて降りていき、赤いなよなよとしたけしの花々や黄金の麦畑を撫でていった。


 もうすぐ、本格的な夏が始まる。

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