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第127話
「迎えが来ているよ。もう行きなさい」
私は王子の視線をたどった。うす青い闇の黒い鉄門の扉の向こう側には、三人の背の高い人影が見える。彼らの少し後ろには、大きな馬車が一台と、うわ……一小隊ほどの人影も見える。
「本当に戦争を起こす気だったのかしら?」
すこしあきれた私が小さくつぶやくと、それを聞いたロイス王子が苦笑した。
「そのようだね。大公はよほどあなたのことを大切に思っておられるようだ」
ゆっくりと前に進むと、門前の人影の一つが前に出てくる。
「レン」
重い正装のドレスのスカートを持ち上げて、私は小走りでその人影に近づいた。
ぽす、と抱きつくと、彼は私をかき抱いた。ふわりと、レンのいつもの香りに包まれて心から安堵する。また会えたことがうれしくて、視界がにじんでしまう。
ヴィヴェカにとって、王宮は住み慣れた場所だった。とても豪華な装飾の施された、美しくて安全な鳥かご。自由はなかったけれど……それなりに「幸せ」だったところ。でも今は、別の場所に最高の幸せがある。
「待っていてくれて、ありがとう」
ぎゅう、と抱き着いてそう言うと、大きなため息が降ってきた。
「危なかったな。もう少し遅かったら、中まで迎えに行こうと思っていたところだった」
「迎えに来てくれなくて、よかった」
私はくすっと笑った。
「ねぇ」
「うん?」
「王宮のみんなが言うのよ」
「何を? 戻って来いって?」
「それは両陛下がいうけど、それじゃなくってね……」
「じゃあ、なんだ」」
「いきいきとして、光り輝いてるって。前にエラードにも言われたけど……王宮にいた時とは違って見えるって」
「ああ、前は魂のない人形みたいに表情が死んでたよな。今は確かに」
レンは青い薄闇の中で私を見下ろして、右手の指で私のこめかみをそっと撫でた。髪を梳くその長い指の感触にネコみたいにうっとり目を細め、私は彼に笑みを向ける。
「確かに?」
「確かに、光り輝いていて美しいな」
青闇はさらに薄くにじんできて、東の黒い森の際から白い朝がちらちらと顔を出し始める。
前世を通しても、こんなにもいとしげに見つめられたことなんて一度もなかった。すごく大きくて、自分ではもう抑えられない感情が胸いっぱいにこみあげてきて、自分の意志とは無関係にそれは私の両目からほろほろと零れ落ちてくる。
レンは目を細めて口の端に笑みを浮かべ、両手の親指でそれらをそっとすくう。
「どうした? なんで泣くんだ」
「私、いますごく、きっと今までで(前世も含めて)最高に、生きていてよかったと思うの」
「なんだよそれ?」
「湖で、私のことを助けてくれてありがとう」
「はは。恨んでないんだな? それはよかった」
「恨むどころか、すっごく感謝してる。それから……」
私は心持前かがみになり、両手でレンの顔を包んで彼を見上げた。
「あなたのいない人生なんて、ありえない」
夏の朝は唐突にやってくる。
白んでゆく清廉な空気の中で、レンの紺青の瞳が大きく見開かれた。そしてそれは、とろけてしまいそうなほど甘く細められる。
「そうか」
曙の空。白から黄色味を帯びた薄紅のグラデーションに、レンの髪の先が銀色に透ける。私は彼の方口に両手を置いて、背伸びをするとその耳元でささやいた。
「そうよ。出戻りなんかいやだって言っても、もう遅いから。もうあなたのこと、離してあげない」
レンは私をぎゅっと抱きしめて、そのまま宙に持ち上げた。
「出戻りでも行き遅れでもなんでもいいだろう? あんたであれば、なんだった構わない。肩書とか身分とかは関係ない。あんたであることが、重要なんだ」
そして彼は私を見上げた。紺青の瞳は朝のひかりを帯びて、透明な青になる。深い深い青。この瞳の中にずっと映ることができるならば、私も何でも構わない。私はレンの首に両腕を巻き付けた。バラ色が私たちを染める。
待ちぼうけたブラッツ卿とキーランド卿と一隊の傭兵たちがあきれ返るくらい、私たちはこの世にまるでお互いしか存在しないかのようにキスを交わしていた。
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