第124話

柔らかな初夏の夕日が大きな窓から差し込んで、部屋の中を陰影の深いオレンジ色に染める。


 私は窓辺で、黄金色に染まる第三庭園を見下ろしている。そわそわと落ち着かないのは、一時間以上、さっきからエラードを待っているから。


 

 エラードは私のお願いを聞き終わった後、しばらくぼんやりと宙を見つめて何かを考えているようだった。


「—―お姉様に、誰か思い人ができたことはなんとなくわかっていたのですが、まさかそれがあの商会長とは。しかも彼はヴァイスベルクの王弟……」


 私は小さくうなずきながら答える。


「私もつい最近、彼のヴァイスベルクでの身分を知ったの。だから、わかってくれるでしょう? もしも私が今日中に戻らなかったら、大ごとになるだろうなって」


 エラードは右の口の端を苦笑で引き揚げながらうなずく。


「ええ。ではいっそ、武装して攻め込んできた彼に王宮を制圧してもらえばよいのでは」


「だから。そうなってほしくないのよ。この国の王家も私にとっては大切な家族なの」


「でもお姉様はまたここで人形のように生きたくはないのでしょう?」


 エラードはまっすぐに私を見た。まっすぐに、純粋に。



 その時、私は廃妃になろうと思いついた時のことを思い出した。


 ナデァは私がおかしくなったのかと訊いた。でも私は、これは人生最大のチャンスだと言った。安全で美しくて少し窮屈な鳥かごの中から飛び出して、約束された未来を捨てて、自由に生きる最大のチャンス。


 そして、ひとつの希望。



『私も誰かを愛してみたいの』


『会いたいときに会えて、対等な関係で、ひと月に一度の苦痛ではなくて、情熱的でうっとりするような幸せを……』



 ナデァはとても驚いた。でも私にとっては、ごく普通の、ささやかな願いだった。


 王子様に見初められて玉の輿に乗って、大勢の人たちに祝福されて羨まれてふんわりと暮らしている、誰から見ても超幸せに違いないだろうと言われるハッピーエンドは、「ハッピー」な「エンド」ではないから。


 女の人生は、結婚がゴールなんじゃない。愛されることは喜ばしいことだけど、愛すること、お互いに尊敬して愛し合うこと、怒ったり笑ったり嫉妬したりされたり。その対象が男でも女でも、犬だって猫だっていい。


 自分の気持ちをさらけ出して相手の気持ちを正面から受け止めて、壊れるどころかむしろさらに強まるきずなや信頼の築ける関係。そんな相手とずっと、死ぬまで一緒に暮らしていくこと。


 事故であれ病気であれ老衰であれ、八割方の満足で終われる人生。王子妃、王太子妃、やがては王妃。そんな栄華は、自由の前には色あせる。



 そして私は以外にも自由になってすぐに、望んでいた相手に出会ったの。


 最初は怖い人だと思っていた。何せ、酒場の二階から降ってきたしね。乱暴な口調、横柄な態度、そして私を馬鹿にした紺青の瞳。めんどくさそうに私のしたいことを聞いて、そのくせすべて叶えてくれる。そっけなく冷たい態度で遠巻きに接するのに、私がなんでも楽しくできるように常に陰で尽力してくれる。


 黄金の光にきらめくオレンジ色の庭園を眺めていると、胸がギュッと締め付けられた。


 レン。


 今頃、エラードから私が閉じ込められていることを聞いて、いらついているかしら?


 ブラッツ卿が必死に止めているのかも。


 

「レンのことを愛しているの。彼のそばにずっといたいの」


 また人形のようにシュタインベルク王家で生きたいのかとエラードに訊かれたとき、私はレンのことを考えていた。そしてさまざまな感情がごちゃ混ぜになって胸がいっぱいになって、そんな言葉とともに涙が零れ落ちた。「愛してる」なんて……前世では誰にも一度も言ったことなんてなかったわ。


 なんとなく言い寄られて、気が付けばかいがいしく面倒を見ていて、去る者は追わず。「にいな」だった私は、そんな浅い恋愛しかしてこなかった。



 ――そう。私は……レンを愛しているの。


 もう彼のいない人生なんて、死んでも考えられない。

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