第108話

あの日。


 離宮での半月ほどの滞在の、最後の日。


 午後遅くに一組の来客を迎えてともに晩餐を取り、翌朝には王宮に戻る予定になっていた。



 それまでの滞在の間にヴィヴェカを訪れたのは、近隣の領地の貴族たち。間もなく王太子になるであろう第一王子とのコネクションが欲しくて、疲労で療養に来ていた王子妃に顔つなぎをしておこうともくろむ打算的な訪問客たち。


 でも最終日の最後の来客は、少し違っていた。


 七年間、王宮で苦楽を共にしてきた親友のような妹のような、一番親しい侍女のたってのお願いで迎える訪問客。


 いつか機会があればぜひ、ナデァがヴィヴェカに会わせてみたかった人物。


 その人物は青い森に入り離宮を目指してやってくる途中に、バルコニーから人が湖に落ちるのを偶然目撃した。


 そして「彼」は馬を駆り湖に駆けつけ、ヴィヴェカが落ちたあたりに飛び込んで彼女を助けた。


 おそらく、「彼」が救う前にはもう、ヴィヴェカは息絶えて……代わりに「私」が「彼女」になったのだろう。



『もう、水は怖くないのか?』


 悲し気に苦笑しながら、私の目を覗き込むように訊いてきたひと。




「あの日、離宮に滞在する最後の日。あなたが特別に招いた客人。あなたが私に、ずっと会わせたかったひと」


「はい。そうです。兄は……あの日、ここに最後の客人としてくるはずでした。来る途中で、湖に落ちたヴィ様を見て……ヴィ様を助け出しました」



 レン。


 レン・フォルツバルク。


 あなたが、ヴィヴェカを助けたから……「私」が「彼女」として今、ここで生きている。



 本当のヴィヴェカはすでに息絶えていた。そこにどんなタイミングなのか、私が彼女の体に入り込んだ。


 でもレンが湖の中から私を引き上げ、水を吐かせ、生き返らせた。



 だから「私」が、ここで生きている……



「それをどうして、キーランド卿が助けたことにしてみんなで口止めしていたの?」


「それは……ヴィ様のためでした」


「私の……ため?」


「兄が言ったんです。彼女は死を選んだのに、自分が助けたことでまた投げ出したかった人生を続けさせることになった。だから自分は、彼女とは一生面識がないままでいいって。そうすれば、新たな苦しみは生まれないからって」


「……そんな」


「私が兄をここに呼んだのは……これから王太子妃殿下として、のちのちは王妃陛下として生きていかれるヴィ様の、頼もしい助けになればよいと考えたからです。でも、ヴィ様はその未来をお選びにならなかったでしょう……」


 彼女はうっと胸を詰まらせたようで、またぼろぼろと涙が頬を伝って落ちてきた。


「キーランド卿が助けたことにすれば、本来の彼の役目を遂行したことになりますし。数日後に目覚めた時、ヴィ様は何も覚えていらっしゃらなくて。それからふた月もほとんど寝たきりで過ごされました」


 キーランド卿もレンも……私を助けてしまったことに責任を感じていたから、黙っていることに賛成したのかな……


「し、心臓が止まっていたのですよ。水もたくさん飲んでしまわれて、ぜ、ぜ、全身がっ、だ、打撲がひどくてっ……起き上がるっ、こともっ、歩くことっ、もっ……」


「うん……ごめんね。もう二度と……しないから」



 私はナデァを抱きしめた。空は曇ったまま、日没を迎えた。暖炉の火だけが赤々と静かに燃え続けていた。

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