第107話

ソファは大きな窓に面して配置されている。


 両面開きの大きな窓の枠はまるで額縁のように、そのキャンバスに白いバルコニーと湖、森と空を収めている。その絵は一日として同じではない。私は彼女ヴィヴェカが湖に落ちる直前の記憶をたどってみる。「自分」の記憶というよりは、映画を見ているみたいな感覚で。



 白てんの毛皮の付いたショールを羽織り、私はソファに深く座る。昏いダークグリーンの湖面を見つめ、そして目を閉じる。



 聞こえるのは……



 女性の悲鳴。


 人々の取り乱した声。


 だんだんと近づいてくる、救急車のサイレン。



 えっ? 救急車?



 あまりの激痛にすでに痛みを感じることはない。しびれる指先、全身には力が入らなくて……そして、何よりも、寒い。川に落とされてはいないはずなのに、ずぶぬれになったっけ? 


 とにかく、全身が冷たくて冷たくて、寒すぎるの。


 ああ、そう。私、勤めていたエステサロンのオーナーが夜逃げして、同僚たちとやけ酒して、帰り道に……後ろから刺されて死んだんだった。きっと、出血多量が死因だったかな? ほら、致死量の血液を失うと、寒いって言うじゃない?


 あれ?


 でも。


 寒いのは、冷たい水の中に自ら飛び込んだせいかしら?


 私……


 「わたくし」は……


 そう。


 バルコニーに出してあった寝椅子を踏み台にして白い手すりを乗り越えて……いままで生きてきた中で一番幸せな気持ちで落下して……意識を失って……



 全身が砕けるほどの激痛。コンクリートに激突するような衝撃。


 鼻から口から流れ入る冷たい水が、またたく間に器官や肺を満たしてゆく。シルクのドレスは水を含んで体にまとわりつくおもりとなり、意識のないままなすすべもなく水の底へと沈んでゆく。


 呼吸のできない苦しみは、ゆるやかにわたくしの首を絞めてゆく日常の「幸せ」を忘れさせてくれる。ああ。わたくしはこの苦痛ののちに、解き放たれて自由を得るの。


 この湖は水深が一定ではなく、深いところは底知れぬ深さだと殿下が話してくれたことがあったわね。


 願わくば、わたくしの落ちたあたりがそんな箇所ならいいのだけれど……




 ふいに……沈みゆく体が、何かに引き留められる。それどころか、何か強い力が水の抵抗に逆らってわたくしの体を浮上させ始めた。


 何?


 わたくしの安寧への道行きを阻むのは、一体何なの?


 わたくしを捕らえ、またあの世界に戻そうとするこの強い力。


 なぜ、わたくしの邪魔をするの……?




「!」


 私は無音の悲鳴を飲み込んで目を開けた。


「ヴィ様。ああ、よかった……」


 ソファで目を覚ますと、隣でナデァが泣いていた。彼女は、小さな子供みたいになくじゃくっている。そっと手を伸ばすと、彼女は両手で私の手を捕らえた。柔らかく、温かな手。生きている。私は夜道で刺されて死んでいない。湖に落ちて溺れ死んでもいない。



「湖に落ちた私を助けたのは、キーランド卿じゃなかったのね……」


 私のつぶやきにナデァははっと顔を上げた。彼女の涙に潤む青い瞳には、戸惑いが揺れている。


「お……思い出したの、ですか?」


 私は微かに首を振る。


「確信はないの。落ちたときには、意識がなかったから。でもあれは絶対に、彼じゃなかったでしょ……?」



「きっ、キーランド卿でないっ、ならっ……誰だとおっしゃるんですかっ……?」


 彼女は泣きじゃくりながら私の手をぎゅっと握りしめる。


 太陽の光がないせいか、室内で明かりをつけていないせいか、彼女のライトブラウンの髪は普段よりも暗めに見える。うつむいた顔に落ちかかるゆるいウェーブの柔らかな髪を、私は指先でそっと梳きあげながら静かに言った。


「あの日……あなたが言っていた『最後の客人』は、もともとは私の客人ではなかったのね」


 ナデァは深く、胸いっぱいに息を吸い込んで細かくうなずいた。

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