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第106話
「ああ!」
青い森の中。
緩やかな上り坂の途中、イエローベージュの石壁の離宮が見えてきた時に、突然ナデァが小さな感嘆の声を上げた。
「どうしたの?」
「いえ、思い出したんです。出発する前にアダリー卿が私を引き留めて言ったんです」
「うん?」
「ヴィ様にお伝えしたかったけど、公子がいらしたのでお伝え出来なかったことを。オストホフに戻られた時にもしも何か王城での噂を耳にしても、何もお気になさらないでください、と」
「えっ?」
「たぶん……公子がおっしゃっていたことかと……」
「ああ、なるほど」
彼女の、何か言いたげにためらう様子。
「ブラッツ卿からの報告を受けたと言っていたから……彼女もそのことを聴いたのね」
「ヴィ様」
ナデァは向かい側の座席からそっと手を伸ばし、膝に置いた私の手を握った。
「兄は、一国の王だろうが望まない物事は拒否する人です。アダリー卿の言うとおり、何もお気になさらないでください。特に……ここでは」
揺れる馬車の車窓から、彼女は離宮を仰いだ。私は口元を大少し引き上げ、彼女の手の上にもう一方の自分の手を重ねる。
「大丈夫よ、もう飛び込んだりしないから」
そうは言ったけど。
気持ちはちょっと……いえ、だいぶ乱れるわね。
初夏だと言うのに、森の中はひんやりとしている。さらに離宮は玄関ホールに立つとぶるぶると震えるくらい寒い。
傭兵たちには大ホールで食事をとって、明日までは自由に休息していてもらう。
第一王子から私の来訪の知らせを受けた管理人や使用人たちは、あらかじめ到着前から部屋を暖めておいてくれた。湖を見渡せる、バルコニー付きの……ヴィヴェカが、衝動的に人生を終わらせた部屋。ナデァは嫌がったけれど、わざと同じ部屋を頼んでおいた。
パチパチと、暖炉の
遠くで、小鳥のさえずりが聞こえる。
そして小魚が跳ねて、湖面を乱す水音。
静寂。
鉛色の空が湖を翳らせている。
「ナデァ」
私は窓辺で振り返る。
「はい、ヴィ様」
「ちょっとだけ、ひとりにしてくれる?」
「嫌です」
ナデァはぶんぶんと首を横に振った。私は苦笑する。
「もう絶対に、前のようなことはしないから」
「信じられません」
「ナデァ、きいて……」
ゆっくりと近づいて、私は彼女の腕にそっと触れた。びく、と彼女がかすかに身を震わせる。
「私はね、息を吹き返した時に生まれ変わったの。何かまた絶望するようなことがあっても……すべて忘れて、前向きに生きていくって誓うわ」
ナデァは下唇をきゅっとかみしめたけれど、こらえていた涙がほろほろと彼女の両頬を濡らした。
「それなら私は、どこまでもヴィ様についていきます」
「うん、どこまでも連れて行くわ」
「もしまた同じようなことをなさったら……今度は私も、すぐに後を追いますから」
「物騒ね。そんなことにはならないから。ね?」
結局、彼女は渋々と部屋を出て行った。
さて……
なんだか心が乱れまくっているけど、ここに来た本来の目的を果たさなきゃね。
ゆっくりと、思い出してみよう。
私がヴィヴェカになる前の、彼女の気持ちと記憶。
湖に飛び込む前から、飛び込んで転生してしまった後のこと。
その前後に考えていたこと、感じていたこと。
そうすれば……どうしてわたしがヴィヴェカになったのか、わかるかもしれないから。
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