第102話

まさか、破婚して半年も経たないうちに王宮ここに戻ってくることになるとは思わなかった。しかも、勝手知ったる王子宮の、元夫の執務室。


 正直言って、戻ってきたらめまいがするとか頭が痛くなるとかを心配していたけど、案外平気。レンと一緒にいるからかもしれない。


おもてをあげよ」


 ロイスの補佐官の無機質な声がする。私とレンはゆっくりと頭を上げる。


「アルトマン商会の商会長レン・フォルツバルク=リンガー子爵並びに商会オーナーの……ヴィヴェカ・アルトマン=マイツェン伯爵でございます」


 補佐官が第一王子に告げる。


 顔を上げると、彼は何とも言えない複雑な表情で執務机で私をじっと見つめていた。


「ようこそリンガー子爵。並びにマイツェン伯爵」



 私が王宮を出て行く日、見送りには来てくれなかったロイス王子。懐かしいような、何だか全く知らない人のような、変な感じ。それ以上でも以下でもない。


「先日は南の領地で暗殺を未然に防いでくれたことの礼を言う」


 南の領地で見かけたときよりも、また更にやつれたみたい。苦労知らずのキラキラの王子様が、とても疲れてくたびれて見える。彼には、私の表情はわからない。顔半分を覆う黒い仮面に隠されているし、ブラッツ卿にちょっとした魔術もかけてもらっているから。


 私がヴィヴェカだということを王子や補佐官は認識できるけど、仮面ビザードをつけている限りは魔力が作動して、私の顔の目、鼻、口の位置は認識できても、私だと認識しようとすると曖昧にぼやけるらしい。



 レンはその後の関連事項を報告する。それにしても彼は一国の王子を前にしても全く動じない。いつもヴァイスベルクの国王や大公と会っているからかしら? 正装も違和感がないばかりか、洗練されていて品格がある。これが本当に子供の頃から人生の半分を戦場で過ごしてきたひとなの?


「——か? 伯爵?」



 ん?



「おい、返事」


 隣でレンが小声で言う。どうやら、ロイス王子から話しかけられていたのね。


「はい、殿下」


「私の補佐官が商会長と話がある間に、少し話せないだろうかと訊いたのだが」


 ロイスの言葉に私はレンを見た。レンは好きにしろとばかりに肩をすくめる。私は王子を見てうなずいた。


「はい、承知したしました」



 ということで、バルコニーに出る。


「あなたを探していたのに。今は一体、どこに住んでいるんだ?」


 ロイス王子は疲れ切った口調で言った。


「旅をしております。今回の暗殺計画をたまたま旅先で耳にいたしました」


 うそでは、ない。


「旅?」


「ええ。それから男の格好をして、馬に乗ったり剣術を習ったりしております」


「それは……楽しそうだね」


 王子は寂し気に笑った。



「もう、顔も見せてはくれないのか?」


 私は穏やかに答える。


「お見せする必要もないでしょう。もうわたくしのことはお探しにならず、お忘れください。殿下にはもう間もなく、待望のお世継ぎがお生まれになるのですから」


「どうして……どうして両方を望んではいけないのだろうか」


「いけなくはないと思いますが。でもわたくしは、自分の選択が間違っていたとは微塵も思いません」


「あなたが言った言葉……」


「はい?」


 私が言った言葉? 私は首をかしげた。


「『何も感じない』と言った言葉。あなたが出て行ってから、毎日のように頭をよぎる」


「……」


「私たちの七年は、そんな一言であっさりと終われるようなものだったのか」


「殿下。私が青い森の離宮で誤って溺れかけたことですけど」



 びく、と王子が身を震わせた。

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