3
第98話
私より少し高い体温と、規則正しい鼓動。
硬い腕が私を包み返し、柔らかな笑みが頭の上に落ちてくる。
「本当に医者を呼ばなくて大丈夫なのか?」
「うん、いいの」
レンは私を抱きかかえたままソファに深く座りなおした。気を利かせたナデァが、キーランド卿の袖を引っ張って出て行くのが見えた。
「あんなに離れていたのに、私のことが見えてたの?」
「もちろん。入ってきた瞬間からわかった」
私は笑みを漏らす。
「どれだけ目がいいの?」
「目がいいだけじゃなくて。どこにいたって、どんな地味な格好をしてたってすぐにわかるんだよ」
「私も、あなたがどこにいるのかはすぐにわかったわ。報告の行列ができてたからね」
はぁ、とレンが大きなため息をつく。私は彼を見上げる。
「冗談よ。ここだけ見えてたって、ちゃんとわかるわ」
額から上を手で示すと、レンは笑った。
このところ、ずっとすれ違いだった。
オストホフ領にいてもレンは連日ヴァイスベルク王室や大公邸、そして時々は辺境伯領まで出かけてばかりだった。
私が寝ている頃に出かけて、寝入ったころに数時間だけ戻ってくる感じ。
王都へ戻るときも彼は武装して騎馬で私の乗る馬車の少し前方にいた。
「そういえば……ツヴァイター・ハーフェンで最初に会ったあの……ペヒ伯爵? あの人の晩餐会、行けなかったわね」
「ああ、代わりにウェンダルを行かせた。どうせ行ってもたぬき伯爵の自慢話をうんざりするほど聞かされるだけだ」
「晩餐会とか舞踏会とか、好きじゃないでしょ?」
「まったく。肩がこる」
「だから……
「いや……あんたは知らないだろうけど、一度だけ、あんたを見かけたことはあった」
「えっ? いつ? どこで?」
私は驚いて目を見開いた。レンはソファの背もたれに後頭部を預けて天井を向く。
「三年くらい前か。国王の依頼を受けたとき、王宮に上がって。謁見の間に続く回廊で、庭園をナデァと散歩してるあんたを遠くから」
私は目をすがめる。
「どうせその時に、のんきそうな苦労知らずだって思ったんでしょ?」
「いや。そうじゃなかったけど」
「けど?」
「なんていうか、今とは全く印象が違ったな。人形みたいな感じだった」
幸せではあった。籠の中の鳥みたいに。過不足なくその世界しか知らなければ、それが幸せなんだとヴィヴェカは思っていた。でも結果的に、彼女はのちに湖に飛び込むことになったの。
「
「あいつのおしゃべりには頭が痛くなる。気づかれないなら通り過ぎるのが最良の策だ」
私たちは笑った。もしもヴィヴェカがシンデレラのまま与えられた「幸せ」を享受して、鳥かごの小鳥のまま生きていたら。たぶん、レンとは出会わなかったでしょうね。
でも彼女は、真綿を少しずつのどに詰め込まれるような「幸せ」を捨てて死を選んだ。そして溺死して、私が彼女になったの。
死にたくなるような「幸せ」は、私にはよくわからないけど……
「おい」
レンの声に、はっと我に返る。彼は今までに見たことのないくらい心配そうな顔をしている。
「やっぱり医者を呼ぶか?」
「呼ばないでってば。あなたがいてくれれば、医者なんていらないから」
すり、とレンの肩口に頬を擦りよせる。さっきのアダリーの、青ざめた絶望の表情が脳裏をよぎる。ごめんね、でも、もう自分ではどうすることもできないくらい、この人のことが好き。この心地よいぬくもりを手放すことは、絶対にできそうにないの。
「わかったよ」
レンは私の額に口づけた。大きな手が、私の肩や背を包み込む。
「ほんとに? もう仕事に戻らない?」
「なんだよ、さっきと言うことが逆だな?」
レンはくすくすと笑う。
「そう。こっちが本音」
私は再び彼をぎゅうと抱きしめた。
離したくない。
何があっても、離したくはないの。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます