第94話

—―おそらくここはアイレンベルク公爵の息子である伯爵の領地の森の中で、ベーレンドルク辺境伯領に近いところだろう。


 豪華とは言い難いが、それでも上質な部類には入るような広い部屋に閉じ込められている。


 木々しか見えない窓はすべて釘打ちされているが、少なくともカーテンを開閉して日光を入れたり遮ったりする自由はある。



 ヴィヴェカに姿を変えたエラードは、天蓋付きのベッドの上に横たわりながらくすっと自嘲の笑みを浮かべた。


(私は一体、何をしているんだ?)


 数日前、彼女を隣国の港町に尋ねた。王都から彼女の気配が消えて数日、彼はあらゆる手段を使って彼女を探し出そうとした。そしてついに彼女の居場所を特定できたのに。そこには誰かが張った強力な防御魔法の結界が張ってあった。


 彼にも破壊することが難しい程の複雑な術式の結界だ。調べてみると、ブラッツというアルトマン商会の会長の補佐官にいきついた。傭兵でもあり、かなりの実力の魔術師でもある。


 アルトマン商会はお姉様のご実家だ。そこの現会長は、お姉様のお父上の親友・フォルツバルク前子爵の息子のはず。今は子爵位を継いだが、十二の時から戦場にいる現役の傭兵だという。


 幾多の戦場を経験しても命を失うことなく、今や剣術を極めた相当の手練れらしい。その上、爵位と共に商団とお姉様の後見役まで引き継いだ。例の魔術師はこの男の片腕であり、真っ向から挑んだらエラードでも苦戦しそうだ。


 だから彼はその魔術師——ブラッツ卿に、まずはコンタクトを取った。お姉様に会わせてほしい、と。


 ブラッツ卿は後見人の許可を得てみると言ってきた。そして商会長の許可を得たので、エラードは隣国の港町に向かった。



 数週間ぶりに見たヴィヴェカは、今までに見たこともないくらい充実して見えた。菫色の瞳は幸せに輝き白い肌は真珠のように艶やかで、ほんのりとピンクモーブがかったグレージュの髪は、キラキラと波打っていた。誰がどう見ても彼女は……恋に落ちたように見えた。



(ああ、お姉様。そんな表情は、今まで一度もなさらなかったのに)


 こんなことならば、第一王子と離婚を考える前に王子を亡き者にしてでも奪っておけばよかった。


 いや、今からでもさらってしまえば遅くはない。記憶を消して、書き換えて、彼女が私だけにあんな幸せそうな表情を見せてくれるようにすれば。幸いにもあの魔術師は不在のようだから、強引に結界を荒らせば彼女一人を連れ去るくらい不可能ではない。


 一瞬、魔が差しそうになった。でも。



『あなたは私の妹であり、弟であり……大切な家族だったの』



 あんな輝いた顔であんなことを言われたら……



 それまでは、たとえ心が伴わなくても、ヴィヴェカがそばにいてくれさえすればいいと思っていた。でもあの表情を見て、その考えがどれほど虚しいものなのかを悟ってしまった。


 自分は、従兄ロイスよりもはるかに彼女を愛していると思っていた。でもはたして、こんな満ち足りた表情をさせることができただろうか? そばにいてくれさえすれば、魂の抜け殻でもいいと思っていた。自分はなんと、あさはかだったのか。



 エラードはヴィヴェカに会いに行ったことを後悔した。


(お姉様のあんな表情を見てしまったら……無理矢理自分の気持ちを押し通して抜け殻だけそばに置くなんて、できるはずがない)



 彼は抜け殻を監禁して愛でることを諦めた。彼女は人形ではなく、自分の意思を持つ人間だから。


 その代わりに彼は、彼女を阻むものは(彼自身の憂さ晴らしもかねて)すべて破壊してやろうと決めた。


 だからヴィヴェカに成りすまし、わざと誘拐されることにしたのだ。

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