第91話

「なんですって? 失敗? シルケは捕まったのか?」


 シュタインベルク国の王宮、西の宮殿。


 第一王子の南の領地からの早馬のしらせを届けた騎士に向かい、リシェル妃は声を荒げた。


「もう邪魔をする廃妃はそばにいないと言うのに、お兄様の刺客たちもシルケも、みんな失敗したとは!」


 リシェル妃は怒りのあまりわなわなと震える。


「シルケ夫人は、あの混乱のさなかに行方不明となりました。あちら側に捕らわれたようです」


「なんだと? シルケには自害するよう申し付けてあるだろうな?」


 リシェル妃は傍らの中年の侍女長を睨みつけた。


「子供を人質に取っておりますので、捕まった時はどうするかは理解しているはずでございます」


 侍女長は冷静に答えた。



「まずいことになりましたよね……」


 王妃の向かい側の座ったトリーシャが落ち着かない様子で言った。


「私たちに疑いの目が向けらます」


「おだまり。お前の腹に王子の子がいる限りは、まだ希望はある。徹底的にしらを切りとおすのだ」


「しかし……周りは騙せても王妃にはいつバレるかと……」


 トリーシャは真っ赤な唇で自分の右の人差し指の根元を噛んだ。


「みっともない仕草はおやめ。お前が堂々と幸せそうにしていればバレることはない」


 リシェル妃はぴしゃりと言い放った。



「せっかく邪魔者が自ら去って行ったというに。暗殺を阻むものがないにもかかわらず、お兄様は一体何を手間取っておられるのだ? シルケが拷問されて、何か吐いたらどうする? あやつの娘などもう価値はない、奴隷商人にでも売り飛ばしてしまえ」


「御意」


 騎士が頭を下げる。そこにあわただしく、リシェル妃の侍従が入ってくる。


「ただいま、連絡がございました。令嬢を隠しておいた邸が何者かによって襲撃され、伯爵令嬢は連れ去られたとのことです」


 リシェル妃は頭に血が上り、手元のティーカップを衝動的に壁に投げつけた。トリーシャは短い悲鳴を上げ、他の者たちは自分の頭部を破片から庇った。


「——無能どもが。シルケが裏切ったということだ。お前たち、あれはシルケが忖度をして勝手にしでかしたことだ。そう押し通せ。よいな?」


 騎士も侍女長も侍従も、あるじの冷酷な視線を受けないように、あわてて頭を下げた。トリーシャは涙をこらえてぶるぶると震えた。しかしリシェル妃はそんな怯え切った彼女に冷たく鋭い視線を向けた。


「かくなるうえは、お前が寝所で王子の寝首をかけばよいのだ」


「そ、そんなっ、わ、私には……っ」


「お前。田舎の弱小子爵家の娘風情が。誰のおかげで王宮ここで大きな顔ができると思っておるのだ? お前の男も誰のおかげで出世できると?」


「しっ、しかし、一国の王子のお命を狙うなど……む、無理ですっ!」



 さぁぁぁ……と、まるで擬音がしそうなほど、リシェル妃のまとう空気の温度が下がる。ほかの者たちは自分に害が及ばぬように徹底的に気配を消す。


「できぬならそれでよい。お前の男を消すまでだ」


「そ、そんなっ、り、リシェル様っ……!」


 リシェル妃は大きなルビーの指輪がはめられた細い手で、トリーシャの顎をがっしりとつかんで顔を上げさせた。ブルートパーズのような彼女の青い瞳がトリーシャの怯える薄青の瞳を見据える。


「お前の意思など関係ないのだ。命じられたことだけよくこなせ」


 嗚咽すれば殴られる。トリーシャは歯を食いしばって、泣き声をあげるのを必死にこらえた。彼女の両目からは涙が流れ落ちる。ほかの者たちは音もたてずに息をひそめる。


 ぐ、とリシェル妃が指先に力を籠めると、彼女の美しく手入れされた長い爪がトリーシャの顎に食い込んだ。


 トリーシャは歯を食いしばり、リシェル妃の怒りが収まるのをひたすら願っていた。

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