第90話

あれは確か、王宮でヴィヴェカが王子妃教育を受け始めたころ。


 王妃御自慢のバラ園のガゼボで、ロイスが初めてヴィヴェカにキスした日。



 愛する相手に触れたいと思うのは自然なことだ。


 だからあの日、バラの咲き乱れる美しい庭園の瀟洒なガゼボで、彼は衝動的に少女の無垢な唇を奪った。初めは、小鳥同士がくちばしを合わせるような他愛ないキス。

 

 もちろん、無理やり彼女の純潔を奪うような真似はしなかった。ただそれからは毎日のように彼女の唇を奪った。ロイスは恋に酔いしれ、彼女を深く愛し始めていた。そしてその頃からつい最近まで、彼はそれについて何の疑問の持たずにいた。


 彼は彼女を愛している。当然、彼女も同じ気持ちのはず。


 あなたを愛しています、と言うと、私もです殿下、とはにかみながら小さな声で答える。


 キスの雨を降らせたあとに彼は、彼女に一生涯の愛を誓った。

 


 大人になった今あの頃を思い返してみると、子供すぎて有頂天すぎてわからなかったことが、なんとなくわかってきた。


 ああ。どうしてわからなかったんだろう?


 ほんの十五か十六の無垢な娘に、愛が何かなどわかるはずがない。もちろん、たった十六か十七の少年だった自分にも、愛はただの机上の空論に過ぎなかった。




 彼女が王宮を出て行ってから、彼は時々夜中に彼女の名前をつぶやいて目を覚まし、それから眠れない日々を過ごしていた。



 彼女はもう、彼のことなんて少しも未練がないようだ。時々、侍従に彼女の暮らしを探らせていた。それがある日突然、邸から姿を消した。


 それからはずっと……いくら調べても行方が分からない。



 ヴィヴェカ・アルトマンは、完全に消息を絶ってしまった。



 そして彼はやっと気づいたのだ。六年間、彼の妻だった女は彼を敬愛してはいたが、男として伴侶としては、「愛して」いなかったということを。


 愛とは、一体何だったのだろうか? よく考えたことはないけれど、彼には絶対的な自信があった。彼女とは一生を添い遂げる。威厳ある王となり、その隣にはヴィヴェカが王妃として優美に微笑んでいる。


『何も……感じないのです』


 彼女はそう言った。その一言が、明確な形を持たないけれど確かに存在していた彼の「愛」を、一陣の突風のように霧散させてしまった。



「ヴィヴェカ……」


 明け方にロイス第一王子は浅い眠りから目覚めた。まだ暗い部屋の中でごそごそと身を起こし深いため息をつく。


 もうすぐトリーシャが、新しい王子妃となる。ロイスが王太子に立てば、王太子妃となるのだ。子を身ごもっているせいなのか、彼女は情緒不安定ですぐにかんしゃくを起こし、使用人たちにもひどい八つ当たりをする。みんなが腫れものにでも触るように彼女を扱い、そして疲弊している。


 思い出されるのは、あの優しく思いやりにあふれる知的なもと妻のことばかり。来年には自分の子が生まれると思っても少しも嬉しくは感じなかったし、過ちから始まったとはいえ、妻となるトリーシャにも全く愛情を感じなかった。



 先日の南の領地での暗殺未遂騒動。


 リシェル妃の侍女が、彼に毒を浴びせようとしていたのを防いでくれたのは……



 彼は確信を持っていた。あれは、ヴィヴェカだったに違いない。彼女だからこそ、あれは防げたのだ。それまでの六年間、彼女がそうしてきたように。



 アルトマン商会の会長はヴィヴェカの最側近の侍女の兄だと言う。あの男はきっと、何かを知っているに違いない。彼女に口止めでもされているのだろうか?


 それも間もなく判明するだろう。アルトマン商会のオーナーと会長を、王宮に招待した。



 彼は薄まりゆく暗闇の中で両手で顔を覆い、深いため息をひとつついた。



「どこにいるんだ……ヴィヴェカ……」

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