第89話

「あんたが思い出せなくても、できる限りあんたの願いはかなえてやるよ。約束だからな」


「……」


 まだ問いかけようとしたとき、唇をふさがれる。深い口づけを陶然と受けながらうっすらと目を開けると、紺青の瞳が私を見つめていた。私たちは時折見つめ合ったまま、お互いの舌をひたすら貪り合うのをやめない。


 どこか、諦めのような。どうして、悲しそうに私を見つめるの? 私が何か、思い出せない何か、あなたを悲しませるようなことをしたの?


 もしもそうだったとしたら……あなたは私を恨んでいるかしら?


 目を閉じると、そのもの言いたげな群青の瞳が脳裏に焼き付く。すると得体のしれない大きな不安がふわりとのしかかってきて、今触れている体温が永久に失われるような気がしてくる。


 息も絶え絶えになりながらも、私は必死にレンにしがみつく。レンは私を抱き起こして背中をさする。


「いいんだ。思い出せなくても、あんたは何も悪くないから」


 よくないよ。


 もしかして、最初に冷たかったのは、私があなたを思い出せないからだったの?


 いろいろと言いたいけど……きっとかたくなに、教えてはくれないだろう。そういえば、ナデァも私が湖に落ちたときのことを何か言いかけてなかったっけ? あの時の様子では、キーランド卿も何かを知ってるはずだし。



 湖。


 ヴィヴェカが人生を放棄して、私が彼女になった場所。


 きっとそこに、何かがある。


 今すぐにはいけなそうだから、とりあえず公爵の件が落ち着いたら行ってみよう。



「ヴィヴェカ」


 名前を呼ばれて、私はレンを見上げる。


「思い出しても出さなくても、あんたはただ、何でも自由に楽しんでいればいい」


 私はレンのシャツの襟元から覗く、左の鎖骨の上を斜めに走る古い刀傷にそっと指先で触れた。胸のあたりまで十センチ以上ある傷跡。肩にも腕にも背中にも、彼はたくさんの古傷を持つ。ナデァの話では、十二歳くらいの頃からずっと人生の半分以上を戦場で過ごしていたって。


「そう思うなら、もうケガしないで、ずっと一緒にいて」


 レンはふと笑う。


「全部ガキのころの傷だから」


「嘘つき。この前、ここを辺境伯に斬られて来たじゃない!」


 私はレンの右腕をぺしっと叩いた。


「あれは戦場の傷じゃねぇよ」


「屁理屈!」



 さらにもう一度叩くと、レンは私を肩に担ぎあげたままいきなり立ち上がった。


「うるさいとバルコニーから投げ落とすぞ?」


「できないくせに」


 ち、と舌打ちしてレンは私を担いだままバルコニーの手すりに近づく。私の上半身が手すりを越える。


「ほら、泣いてごめんなさいって言ったら許してやる」


「やっ……何するのよっ!」


 ちょっと本気で驚いて、私はレンの首にしがみつく。振り落とされないように両脚もレンの腰に絡める。レンは勝ち誇って子供みたいに笑う。それから大股で部屋に入り、ベッドに私を投げ落として組み敷くと、口元を引き上げる。


 親密になってまだ日は浅いけど……私はそのぞくぞくするほど色香の漂う表情が、すごく好き。


「バルコニーからあんたを捨ててもどうせ俺が拾いに行く羽目になるなら、ここで手っ取り早く泣かしたほうが楽しいよな?」


 私のコルセットステイズの紐が解かれ、ペチコートも、靴下を留めていた膝下のリボンも、次々と解かれて取り去られてゆく。リネンのシュミーズ一枚になって、さらりと指先で体のラインをなぞられるとお腹の奥がうずいてじれったいのに、レンはそんな私を見下ろしているだけ。


「意地悪ね」


 切なげな私の負け惜しみを聞くと、レンはくすっと笑んで私の腕の付け根近くに噛みついた。

 

 悲鳴を堪えて吐息を漏らすと、彼は私の耳元で囁いた。


「この程度で?」


 リネンのシュミーズが乱暴にはぎとられる頃には完全に、私は嵐の中の木の葉のように……翻弄されることだけに夢中になっていた。

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