困惑と混乱と

第88話

「それはね、誘拐されることを目的に、私に成りすました人がさらわれたってことじゃないかな」


 私の言葉にレンははっと目を見開く。


「それって、まさか。あの女装の公子か?」


「はっ。ヒューゲル公子ですか⁈」


 二人の言葉に私はうなずいた。


「ここを去るときに、あの子、何かやらなくてはいけないことがあるとか言って、急に王都に戻ったの」


「でも公子は、なぜそんなことを?」


 七年も王宮でずっと私と一緒だったナデァさえ、納得できないと言うように首をひねった。私はヴィの記憶の中から思い出したことを口にした。


「エラードはアイレンベルク公爵に恨みがあるの」




 まだ魔力が発現していなかった幼い頃から、彼は何度か侯爵に命を狙われた。王弟の嫡子である彼は、王位継承権第二位だったから。リシェル妃がルキを妊娠すると、暗殺も頻繁に起こった。ヴィわたしがまだ王宮に上がったばかりの頃、エラードは女装して私の侍女を装い魔術で自分自身の影武者を置いていたけど、その頃も何度か影武者が暗殺されそうになったらしい。


 ルキが生まれて継承権が三位に下がると、暗殺の数も減った。今はエラードが国一番の魔術師になったので、公爵も下手に手を出さなくなった。


「彼の乳兄弟とかわいがっていた飼い猫が、公爵のしかけた毒で死んでしまったの」


 幼い頃のことだったとエラードが話してくれたことがある。あの子があんな猟奇的な性格になってしまったのは、公爵のせいとも言えるかも。


「もしもさらわれた『私』がエラードなら、命の心配はいらないでしょう。わざと連れて行かれたんでしょうし」


「それどころか、公爵の謀反自体をぶち壊してくれそうだな」


「たぶん、それが彼の狙いかも」


「一応は情報の真意を確認しないとな。引き続きアダリーに探らせておく」




 その夜、私はレンの部屋のバルコニーにいた。


 もうすっかり慣れてきた南国の海風が心地いい。


 麻布で天幕を張った中に、三人は座れそうな楕円形のラタンのパパサンチェアに寝転んで、星空を見上げながらワインを飲んでいる。足元にはあちこちに小さな蜜蝋のキャンドルの火が揺れて、甘い香りをほのかに放っている。二人きりでいるのは、一週間ぶりくらい。


「ここは本当に素敵なところね。大公は素晴らしい領主に違いないわ」」


 満天の星空を見上げ、レンの肩口にもたれながらそう呟くと、レンはふっと笑った。


「なんならここにずっと住むか? 大公からの許可は取ってやるよ」


「本当? 私も一度、大公に謁見するほうがいい?」


「別にしなくても大丈夫だ」


「そう? いっそシュタインベルクを出て、誰にも何にも気兼ねせずにのんびりと暮らすのもいいかもね」


「どこに移ったって、税金さえ納めてりゃ問題ない。この国の王も大公もお得意様だし、歓迎されるぞ」



 私はレンを抱きしめて微笑んだ。


「結局、なんでも私の願いを聞いてくれちゃうのね?」


「仕方ないな。約束だから」


 え? 私は体を起こしてレンを見上げる。


「約束って?」


 レンは片眉を上げて私を見下ろす。


「覚えてないんだろう? 思い出せよ」



 また……?


 そんな風に言われると、頭の片隅で何かがぼやけていて、肝心なことが思い出せないと気づく。何? 約束?


「レン……」


 私は彼の額に自分の額をつけた。


「私、湖に落ちて目覚めてから、部分的に記憶が抜けているというか……思い出せないことがあるの」


「ああ。ナデァから聞いてる」


「あなたと私は……商会の事務所の酒場で会ったのが、初めてじゃないの?」


 レンは口の端を引き上げて私の頬を長い指の背で撫でた。


「前に言ったよな? あんたが思い出すことに意味があるって」


 ほら、また。紺青の瞳に翳りが射す。


 悲しみ? 失望? 


 私はその深い青に魅せられて、息をするのも忘れるくらい切なくて胸が締め付けられる。

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