第86話

なによ。


 舞踏会なんて、ぶの字もなかったわ。


 まぁべつに踊りに行ったわけじゃなかったから、いいけどね。


 レンと辺境伯は傭兵たちとともに、邸の外で待機していた襲撃者たちを一掃したらしい。ブラッツ卿に運んでもらって連れてきたシルケ夫人は、作戦を話し合った宿で目覚めると、しばらくパニックを起こして泣き続けていた。


「お久しぶりですね、シルケ夫人」


 夫人と二人きりにしてもらい、彼女が泣きつかれて落ち着いてきたころに、私は夫人にそっと声をかけた。夫人は男装したままの私を見て初めは気づかなかったけど、はっと息をのみ、寝かせていたベッドから転げ落ちて深々と頭を下げた。


「なんてことでしょうか……妃殿下、一体なぜそのような格好で……」


「もう、その呼称はふさわしくありませんよ。廃妃ですから」


 私はゆるく苦笑して続けて言った。


「命令されたんでしょう?」


「はい。娘を……取り上げられて……ああ。なんということを……!」



 八歳の娘を公爵が連れ去り、娘に生きて再会したければ王子を殺せと脅されたとか。もし成功すれば王権交代後に夫が重臣になれると。


「ほかのことはどうでも……娘だけはと……大罪を犯すところでした」


 もしも彼女が失敗した場合、舞踏会上に武装した暗殺団が乱入して招待客もろとも王子をしとめて火を放つ予定もあったとか。恐ろしい。


 この夜、第一王子の領地のあちこちでは、死体の山ができたという。生け捕りにした暗殺団の何人かは、ブラッツ卿が尋問するらしい。暗殺者たちのほかに侯爵の側近の文官たちも二人ほど捕らえたので、こちらは辺境伯が武器の密輸ルートの詳細を詰問するとか。


 私はレンに頼んで、シルケ夫人を預かることにした。リシェル妃の宮殿に行くといつも隅っこに控えていた気弱なシルケ夫人は、捨て石にされたのだ。夫は公爵の言いなりだから、自分の出世のためにも必ずやり遂げろと言ったらしい。


 この南部での暗殺失敗のしらせが王都の公爵に届く前に、レンはブラッツ卿に命じて夫人の娘が軟禁されていた侯爵の別邸を探し出し、王都にいる傭兵たちに命じて少女を救い出した。すばやい。この知らせを聞いた夫人はまたまた泣き崩れた。



 夜の闇に紛れて、私たちはひそかにオストホフの港町に戻った。疲労困憊でふらふらの夫人をナデァに預け、私はメイドたちを呼んで湯あみを済ませ、一息ついた。レンと辺境伯は、オストホフの大公邸へ出かけて行った。



 大公邸へ向かう前に、辺境伯は私と少し話したいと申し出た。マイツェン邸で求婚されたときのように、応接室にキーランド卿とナデァが同席した。


「いきなり邸を抜け出したかと思えば、こんな遠くにあの男と一緒にいたとは、あなたには驚かされた」


 怒っても、呆れてもいないようだ。ごく普通の穏やかな口調。


「公爵が王子殿下を脅すのに私を誘拐しようとしているらしくて。それで王都から遠ざけてくれたみたいです」


 彼は淡い苦笑を端麗な目元に浮かべた。


「どうやらまた、私は出遅れたようだな」


 なんといえばいいのやら。「ごめんなさい」? いや、なんか違うなぁ……


 こういうのって、告られた順番とかじゃないから。


 でも、友人になるって、言ってたでしょ……


「レディ・ヴィ」


「は、はい?」


「あなたはあの男のことを、すべて知っているのか?」


 えっ?


「辺境伯の従弟にあたるということはつい最近知りましたが……」


「ええええっ⁈」


 私の背後でナデァが絶叫する。あ、そうだ、まだ彼女に話していなかったんだったわ。私の侍女が突然大声を張り上げたので、辺境伯は唖然としている。私はナデァと辺境伯を交互に見て苦笑した。


「あの……ナデァ。あなたの母君はね、前ベーレンドルク辺境伯の妹さんなんですって」


「えええええ?」


 彼女はまた絶叫した。

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