6
第85話
真っ青な顔は、何かに怯えているみたい。
平静を装っているけれど目がなんとなく泳いでいる。いつも淡いブルーやパープルのドレスを好んで着る、おとなしくて内気なあれは……リシェル妃の侍女ひとり、シルケ夫人。私は素早く周りを見渡す。彼女の夫、アイレンベルク公爵家の家臣である伯爵は……どこにも見当たらない。
第一王子の南部の領地に、第二王子の生母の侍女。ロイス王子の護衛も補佐官も、まだ彼女には気づいていない。
「!」
彼女の震える手には、何かダイヤ型の小瓶のようなものが握り締められている。中には、赤い透明な液体。あれは……以前、見たことがある。この世界で暗殺に使われる、魔術師たちの作る毒薬の一種。ほんの数滴浴びせるだけで、軍馬も即死させる強力な……
私はとっさに辺りを見回す。ブラッツ卿、どこ⁈
今目を離したら、彼女はあの小瓶をロイスにぶちまけるかもしれない。
『あんたの役目は武力以外の脅威を察知することまで、だ。いいか? その先のことまでしようとするなよ?』
『お願いですから、無茶なことはしないでください』
レンとブラッツ卿の言ったことが脳裏をよぎる。
でも!
躊躇している暇はないのよ。
彼女だって、きっとリシェル妃に命じられて、やりたくないのにやらないといけないのよ。なら私が、罪人にならないように邪魔してあげないと。
意を決したように一度大きくうなずくと、彼女はゆっくりと歩を進め、謁見の列に加わった。
あっ! ブラッツ卿!
彼は誰か、多分商団の顧客関係の人たちに囲まれてしまい、彼らをあしらっている。私から見て五メートルほど先にシルケ夫人、そしてその三メートルほど後ろにブラッツ卿。私は傍らを通り過ぎる使用人の手からワインボトルを取り上げて、謁見の列に並ぶ人々の頭上にぶちまけた。みなさん、ごめんなさい!
「きゃああぁぁっ! な、なんですのっ!」
「うわっ! 誰だっ!」
「いやぁぁ! わたくしのドレスがぁぁぁっ!」
「さっ、酒くさっ!」
「し、シミになるっ!」
人々が一斉に叫び、列が乱れる。ワインの香りが拡散され、人々の衣装に、床に、赤い液体が飛び散った。おかげで、ブラッツ卿はこちらを見た。よし!
私は空のワインボトルを頭上でぶんぶん振り回しながらぴょんぴょんと飛び上がった。ブラッツ卿がアイスグレーの目を大きく見開いて、「信じられない」というような表情で私を見た。
護衛騎士はロイス王子の前に立ちはだかり、補佐官は避難路を確保している。混乱する人々の少し後ろで、シルケ夫人はますますうろたえて、もう見るからにがくがくと震えている。私は人のいない壁際に、思いっきりワインの瓶を投げつけた。
ガラス質の割れる鈍い音が響き、淑女たちの悲鳴が上がる。会場はカオス状態と化した。ロイス王子は補佐官や侍従と共に会場を去った。
私は人混みをぬって素早くシルケ夫人に駆け寄り、彼女の手から小瓶を取り上げた。彼女は悲鳴を飲み込み、あまりの緊張と恐怖で気を失ってしまった。
「!」
そんな。これは……無理! 私では彼女を支えられな……い、と思ったら……
「なんてことをするんですか!」
いつの間にかブラッツ卿が目の前にいて、後ろに倒れそうになっていたシルケ夫人を抱きとってくれた。ふう。私は胸を撫でおろした。
「早く。混乱に紛れてここを去りましょう。彼女は連れて行きましょう」
「なぜこの御婦人を⁈」
「暗殺未遂の実行犯だからです!」
私は彼女から奪い取った小瓶をふりふりと振って見せた。
ちっ、と小さく舌打ちするとブラッツ卿はシルケ夫人を抱き上げ、私を振り返って目をつり上げて言った。
「行きますよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます