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第79話

『祭りで配られたレモンを一緒に食べると、死ぬまで幸せに一緒にいられる』 




 そんな言い伝えがある。


 レンは私に口づけた。甘くて、レモンピールのさわやかな苦みもする。


「あんたは全く覚えていないだろうけど……」


 ふ、とレンは淡い苦笑を漏らす。私は彼の紺青の瞳を恍惚と見つめながら少し首を傾ける。


「この前もそんなことを言ってたでしょ。私が一体、何を覚えていないの?」


「そうだな……いつか思い出すかもしれないし、もう思い出さないかもな」


 紺青の瞳が私から逸れて少し伏せられる。長いまつ毛が真実を遮るかのように伏せられる。抗えない色香が仄めいて、私は胸の奥が苦しくなる。


「教えてくれないの?」


「あんたが思い出すことに、意味がある」


 ふ、と笑みを浮かべ、その口は私ののど元に吸い付き、鎖骨の下に甘く噛みつく。思考が鈍くなる頭で必死に考えるけど、やっぱり何のことなのかよくわからない。それはヴィヴェカが忘れてしまった何かなのか、彼女は覚えているけれど、私が彼女の記憶の中かが拾えないことなのか。


 もしかしたら、私がヴィヴェカになる前のほんの空白の間に……湖に飛び込んだ時に何かあったのか。


 あの時のことはナデァも詳しくは教えてくれないし、キーランド卿も話したがらない。ヴィヴェカが自殺を図ったのだから、二人にとっては思い出したくもない悪夢の出来事には違いないのだけど……


『もう、水は怖くないのか?』とレンは訊いた。ヴィヴェカが湖に身を投げたことを、もしかしたらレンは知っているのかな? ナデァが王家の秘密を血縁者だからと話すはずはないから……それも秘密の情報網によるのかしら?



 初めて彼に会ったのは、酒場だったはずよね……?


 私の思考は次々と与えられる悦楽に負けて、散り散りに打ち消される。


 何か、とても重要なことを一瞬だけ思い出しかけたような気もするけど……もう、無理。


 私は生まれて初めて(一度死んでしまったみたいだけど)、恋に溺れていた。




 ——結局、また翌朝もレンのベッドの上で目が覚めた。明け方、彼は大公邸に出かけて行った。


「まだ寝てろ。眠いだろう?」


 そう。……意思に反して、体が言うことを聞かない。


「さすがに悪い女だって噂が立ちそうね」


 ただの離婚ではない。王家を出てきたのだ。半年もしないうちに、新しい恋人と人目もはばからずいちゃついてるなんて、ゴシップ好きの人たちの格好の話のタネね。


「たとえあんたが昼過ぎまで寝てて素っ裸でベッドの上で飯を食ったとしても、この邸の連中は誰も気にしないさ」



 不遜な笑みを残して、地味なお忍び服のままレンは朝日が昇る前に出かけて行った。そんな平服で大公邸に参上しても大丈夫なの? 隠密の任務なのかな?


 いってらっしゃいと彼を送り出して、私はまた瞼が重くなった。でも、気力を振り絞って起き上がり、誰にも出くわさずにふらふらと自室まで戻った。ベッドに倒れこんで、日が昇るまでもうひと眠り。日が昇るとメイドたちを呼んで湯あみを済ませ、身支度を整えた。



 朝日が降り注ぐ自室のダイニングで朝食をとっていると、今までに見たこともないようなどんよりした表情のナデァが、頭上に黒い雨雲を従えてやって来た。


「ど、どうしたの? 顔色が悪いわね……」


 私は紅茶のカップを取り落しそうになった。



 彼女は暗い表情のまま、私の向かいの席にすとんと腰を下ろしてテーブルの上のナイフをじっと見つめながらほろほろと涙を流し始めた。


「えっ? ナ、ナデァ⁈」

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