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第78話

そして彼は片手で私の肩をつかむと後ろに引き寄せて、私の耳に囁いた。


「昼間、公子からそう聞いたのか?」


 耳に注がれる低音の振動がぞくりと背筋を走る。心もち身をよじろうとしたけれど、がっしりと肩をつかまれ抱え込まれていてびくともしない。


「そういうわけじゃないけど……誘拐計画のことを聞いて、もしそうならつじつまが合うなって思った」


「そうか。あんたは本当に聡い女だな。チビから聞いていた時は過大評価だろうって思ってたけど」


 身動きできない腕の中で、私はびくりと身を縮める。レンの唇が、私のうなじを吸う。ちくりと鋭い痛みが走る。


「な……ナデァのこと?」


「ああ。俺に会いに来るたびに、やたらとあんたを褒めるんだよ。世間知らずが別の世間知らずを褒めるのを笑ったけど、実際のあんたには本当に驚かされる」


「ばかにするなら……相手にそうと知られずにしなきゃ失礼でしょ」


「はは。さすがに気づいてたか」


「気づくでしょう、気づかせるようにしてたくせに」



 そう。私をばかにしている態度を、隠す気もなかったでしょ?


「普通なら認められない、られても数年はかかる破婚をたった数週間でやり遂げてすべてを手にして市井に戻って来たかと思えば、商売すると言い出した。盗賊に短剣まで振るったしな」


「それだけ聞くと、とんでもない女ね」


「そうか? 面白いだろ? 一国の宰相並みの決断力と実行力、実業家としての勘の良さ。廃兵院を追い出される元負傷兵の再就職まで考え、盗賊には容赦なく短剣を突き付ける。かなりイカしてる」


「それで……私に関心を持ったの?」


「見直したんだよ。これは厄介なお荷物なんかじゃないってな」


 褒められてるはずなのに、嬉しくないのはなぜだろう? またまた、よく眺めてもいないうちに花火は終わっている。私はレンの手を叩き落し、来るときに持ってきた小さな布包みを石のテーブルの上からつまみ上げた。てのひらの上で細いリボンを解くと、小さな白いマカロンが現れる。


 私はベンチに片膝をついてレンに向かい合う。


「お荷物じゃなかったらなんなの?」


「掘り出し物かな」


 レンは私を見下ろして首をかしげる。私は思わず笑ってしまう。


「何なの、その言いぐさ。今夜もあなたのせいで花火をゆっくり楽しめなかったし」


「違うことは楽しめてるよな?」


 レンは口の端を上げる。この勝ち誇ったような不敵な笑みは嫌味ったらしいと思っていたのに、いつのまにかそれを見るとドキドキするようになってしまった。私って、変なのかな? 


 私は自分とレンの鼻先の間に、小さなマカロンを差し出した。




「なに」


 レンは眉根を寄せる。


「昨日、ナデァがお祭りでレモンをたくさんもらってきて、一緒にレモンビスケットを作って邸の人たちに配ったの」


「ああ、あいつが傭兵たちや使用人たちにも配ってたな」


「でもこれは、あなたにだけあげる」


「見たことのない菓子だな?」


 十分小さいんだけど……私はそれを半分に割った。パクリと半分を自分の口の中に入れ、もう半分をレンの口元に持って行く。この世界、この時代にはマカロンは存在しないみたいね。でも彼は躊躇なく残りの半分を口に入れた。


「ん、ああ、レモンだな」


「生地にレモンピールが入っているし、レモンカスタードをはさんであるの」


「聞いたのか? この祭りの言い伝え」


「ええ、聞いたわ。本当かどうかは別として……」



 私はふと笑みを浮かべた。

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