婚約者のいる? 男

第71話

大勢の人たちの目前で私を連れだしてから、レンはわざとらしいくらい私に構い始めた。


 何か言いたげだけど決して何も言わない傭兵たちは生ぬるい目でボスの「奇行」を見守り、ブラッツ卿はもう何を言っても無駄だと言うように無表情を貫き、時々陰でため息をついている。


 私の護衛としてキーランド卿も初めはどうしたらいいのかわからない戸惑いを見せていたけれど、慣れてきたのか平気になってきた。


 ひとり、すごく浮かれて鼻歌まで歌って喜んでいるのはナデァ。彼女は自分の兄が私に構うのが嬉しくて仕方ないみたい。それで私はますます悩みが深くなる。彼女は今まで私と苦楽を共にしてきた誠実な侍女だ。それなのに、婚約者のいる男(=彼女の異父兄だけどね)と私が親密になることを喜ぶのかな?


 

 ひそかに悩んでいたら、週末になった。



 温暖で低湿度のこの地では、貿易港であること以外には柑橘類の栽培で有名らしい。この時期はちょうどレモンやオレンジの小さな白い花が咲き乱れ、同時に早咲きの実がたわわに実る。ということで、レモンのお祭りを五日間にわたって開催するんですって。


「伝説があるんです、ロマンティックなやつが! お祭りで配られたレモンを好きな人と食べると、死ぬまで幸せに一緒にいられるそうです!」


 なるほど。乙女にはロマンティックに聞こえるのね。だからあなた朝早くから張り切って街に出て、「レモンの妖精たち」と呼ばれる子供たちから、二十個近くももらってきたのね。しかもナデァったら。


「ついでに朝市で、レモンの花のはちみつも手に入れてきました!」


 なんて、おおはしゃぎ。しかも。


「ヴィ様! お祭りに参加する時は、未婚女性はレモンの花を髪に挿すんですって。私たちもしましょうね!」


「えぇ? あなただけでいいでしょ。私は……バツイチだもの」


「バツ……? 何ですか? 今は! ヴィ様も未婚女性ですので! あっ、でもでも!」


 本気で、今までに見たことがないくらいはしゃいでるわ、この子。


「相手がいないなら右側、相手がいるなら左側に挿すそうです! 私は右、ヴィ様は左!」


「……」


 疲れるので、余計なことは口出しするのはやめようと思う。



 民族衣装なのかな? 白いブラウスに、裾に花模様の刺繡の黒い袖なしワンピース。Aラインのふんわりしたスカート部分には白いエプロンをつける。レースアップの黒のショートブーツ。普通にかわいい。ん?


「髪に花を挿すって言わなかった?」


 自分は挿してるのに、私には挿さないの? ナデァは肩をすくめてくすくすと笑った。


「それは私の役目ではないですから!」


「?」



 謎はすぐに解けた。


 数分後、玄関ホールへ行くとレンとキーランド卿が待っていた。白シャツ、黒のベストとブリーチズ、襟なしのグレーのロングジャケット。騎士服ではないキーランド卿も素敵だけど、レンは何を着ても似合っちゃうのね。


「はい、これ」


 ナデァがレンにレモンの花を十本ほど細い糸で束ねたものを差し出す。レンはそれを受け取ると、私の耳の上に挿した。なるほど、相手がいる人は、その相手が挿すのね。ナデァはぴょん、と飛び上がって喜んだ。


 レンは私を見つめたまま、私の指先に口づけた。ふわりと甘やかなレモンの花が香って……すでに惑わされそうになる。


「準備はできましたか」


 つかつかとホールを横切ってブラッツ卿がやってくる。あら? 彼はいつもの格好ね。


「ブラッツ卿は行かないのですか?」


 私はちらりとナデァを見ながら訊ねる。彼女はさっきまでのはしゃぎっぷりがどこかに消えて、しょぼんとうなだれている。


「私は邸で待機します。あなたたちには群衆に紛れるように個人認識ができない術をかけておきます。かけなおさないと数時間しか持たないので、早めに戻ってください」



 あらら。


 そういうことで。



 街の中心地へ。

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