第70話

「ボス!」


 背後からブラッツ卿の戸惑った声がレンを呼ぶ。


「たぬき伯爵の晩餐会までに、レディとは演技と思われない親密さを披露する必要があるだろ。ちょっと一緒に散歩してくるから、邪魔しに来るなよ。さっきの話はまた後で、な」


 肩越しに振り返りながらそう言いつつ、レンは大股にぐんぐん歩いていく。私は歩くと言うよりもほとんど宙に浮いて彼に抱えられている。こんな雑でひどい扱いを受けているのに、触れられた時から鼓動が乱れて胸がぎゅうぎゅうに苦しい。まさか私って変態だったのかな? いやきっと、前世でもヴィヴェカになっても、こんな大胆で強引で行動が読めないオレ様な男には免疫がないからに違いない。




 中庭に出る回廊まで来ると、レンは私を下ろしてドレスの裾をめくった。


「な、何するのよっ!」


「そのぐらいの高さなら、砂の上もいけるか」


 あまり飾りのない、シンプルな繻子張りのミュール。どうやら、私の履物を確認したらしい。先にそう言ってよ。


「砂?」


「庭から海に降りられるんだ」


 レンは私の手を引っ張り、振り返りながら笑んだ。だから、ダメだってば。そんな尊い笑顔見せないでってば。



 ラヴェンダー色に滲み始めたころ。レンは片手にガラスのランタンを持ち、もう片手で私の手を引いていく。さっきよりもずっとゆっくりな歩調で。白い彫刻の噴水の脇を通り過ぎて、やわらかな潮風がそよぐ石畳の小道の緩やかな坂をつづら折りに降りてゆく。


 ずっと何も話さないけど……時折振り返って、私の足元を確認してくれている。酒場の二階から飛び降りてきて、クマみたいな大男を蹴り倒した人と同じ人には思えない、そんな繊細なところもあるのね。だから、そういうギャップも見せてはダメだってば。私をぐらぐらに揺さぶって、一体どうしようって言うの?


「今日は何してた?」


 前を向いたまま下り坂を降りながら、レンは何気なく質問してくる。


 私は……


「ずっと、あなたのことを考えてた」


 はっ。


 思わず、心の声を普通に口に出しちゃった!


 レンは私を振り返る。そして見せた、ごくごく自然なかいの笑み。


 だから、ダメだってば。私の退路をふさがないでよ……あなたに落ちるしか、なくなるでしょ?




 砂浜は昼に見たら多分真っ白なのだろう。きめの細かいシリカサンド。はだしで歩くと、キュッキュッと音がする。一隻の朽ちた小舟が打ち上げられていて、その縁に並んで座って紺色に暮れてゆく夜の始まりを一緒に眺めていると、世界には二人だけになったみたいなもの悲しさと幸せをいっぺんに感じる。


 頭を肩のくぼみに預けて寄り添っていると、海風も全く寒くない。


 このままこの世が終わってもいいかなって思えてくるくらい……もう、ダメだ。認めるしかない。私はこの男に、惚れちゃったんだわ。



「ブラッツに聞いたが、ここに来る途中に盗賊に襲われて短剣を振り回したらしいな」


 青い闇になずんでいく水平線を眺めながら、レンがおかしそうに言った。


「ああ、持ってるものは使わないとね?」


 私の答えがツボったのか、レンは空を仰いで爆笑した。そして私の頭をわしわしと撫でた。


「珍しくあいつが感心してたぞ。あんたを見直したって」


 なるほど。ブラッツ卿の私への接し方が変わったのは、やっぱりアレがきっかけだったのね。


「どうせあなたたちは、私が何もできない世間知らずのやっかいなお荷物だと思っていたんでしょう?」


「否定はしない。でもあんたは金儲けしたいって言ったり、短剣振り回したりするくらい生意気なんだな。面白い女だ」


「面白い女、はやめてよ」


 私も笑った。

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