第67話

「もう、水は怖くないのか?」


「え?」


 突然の質問に私は首をかしげた。彼は柱から背中を離し、少し身を乗り出して私の瞳を覗き込んできた。いきなりの至近距離の強いまなざしに、私の心臓が大きく跳ね上がる。


 モウ、ミズハコワクナイノカ?


「もう」? それは……どういうこと?



 眉根を寄せて首をかしげる私を見て、レンはすこし悲し気に苦笑した。


「……本当に、覚えていないんだな」


「な、何を?」


「いや。覚えていないなら、そのままでいい」


 本当に、何のことなのかわからない。何を覚えてなくていいですって?



 もっと訊いてみたくて身を乗り出してベンチに手をつこうとしたら、思いがけずリュートに触れてしまいバランスが崩れる。前のめりになり、ベンチから転げ落ちそうになった。


「!」


 がごぉん! とリュートが派手な音を立て石の床に落ちた。レンはとっさに腕を伸ばし、リュートを見捨てて私のほうを抱きとめた。


「あーぁ、壊……」


 私のせいで壊れたかもしれないリュートに視線を落とし、それからレンに苦笑を向けたとき。私の謝罪はレンの唇に阻まれた。



 —―まるで、時が止まったみたい。



 一体、どれくらいの間そうしていたんだろうか。



 睡蓮の池に浮かぶ東屋、満天の星の下、私たちはたくさんの口づけを交わした。


 レンの唇が離れると所在なくて、私は彼の首にしがみついた。


 いつの間にか私は彼の膝の上にいて、ただひたすら、磁石みたいに離れられなかった。離れたくなかった。



 何を私が覚えてないの? 意味深な言葉の真意をただしたいのに。


 圧倒的な魅力に抗えなくて、甘い雰囲気にひたすら流されてしまった。



 でももう、何がどうでもいいくらい理性がどこかへ押しのけられている。前世に友達ニコちゃんのガーデンウェディングパーティで飲んでほろ酔いになった、十五万円のシャンパンを思い出す。ふわふわと、意識が漂う。いつまでもそのままでいたいくらい、すごく心地いい。


 唇が離れて、くすっと小さな笑い声がする。


「もう、他にはやれないな」


 すこし掠れた、低い声が耳元で囁く。ぞくっと背中がざわついて、私はぴくりと身震いする。


 何を? もしかして、私のこと?


「それ。王家に高値で売りつけてやろうと思ってたけど」


 私の心を読んだかのように、おかしそうに床の上のリュートをつま先で軽く蹴りながらレンは楽しそうに言う。耳に唇をつけたまましゃべられると、体の力が腰からがっくりと抜けていく。これ絶対に、わざとやってるやつ。


「……っ!」


 耳の中をれろりと舐められる。肩が跳ねるけれど、顔と頭を大きなてのひらが支えているので身じろぐこともできない。上のほうを甘噛みされて、耳輪を形に添って舐められて、耳たぶを甘噛みされる。耳の裏を強く吸われ、首筋を甘噛みされると全身の力がかくりと抜けてしまった。


「残念だけど、この辺で止めておかないと。明日は夜明けから地元の商会長と仕事があるから」


 レンはそう言って再び私にバードキスを落とした。


「そんなに、早くから?」


 私ったら……声がかすれてる。なにこの切なそうな声。自分でもびっくりする。


「うん。だから続きはまた今度ということで」


「は……」


 冷笑しようとしたのに、また深いキスが落ちてきた。夏の大嵐みたい。翻弄されて、何の抵抗もできない。でも巻き込まれて取り込まれても……悪い気がしない。



 ああ、これはもうダメだな……


 こんな謎だらけのヤバそうな人なのに。


 私……



 レンに惚れちゃったんだ……

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