第66話

枝々を広げ、それらをたわませて生る大きな黄色い果実たち。あんな大きなレモンの木は、見たことがない。まだ始まったばかりの青い夜の星陰に、幻想的に浮かぶ上がって見える。



 思わず無意識に、サンダルの足を進めてその木に近づいていた。


「わぁ……」


 すがすがしいレモンの香気。南部に来たんだなぁとじみじみ感じる。さらさらとモスリンのナイトドレスの裾をゆらす海からのそよ風も、(ぬるま湯の)湯上りの肌に気持ちいい。空にはラメをこぼしたみたいな星々。


 ん?



 夜風に乗って、何やらかすかな音が聞こえてくる。弦楽器。エキゾティックな音。旋律というよりは、ただ何となくつま弾いている感じね。傭兵たちしかいないこの邸で、楽器をつま弾くような人がいるなら……イメージ的にブラッツ卿かな?


 ちょっとした好奇心に動かされて、私は白い石畳の小道の上を、音のするほうへ足を進めてみた。夜の庭園。



 そして、期待外れの……残念じゃない、驚き。



 睡蓮の葉が浮かぶ池に架かる小さな橋を渡ると、池に突き出たガゼボがある。柱に寄りかかって作り付けの石のベンチにしどけなく座り、頸が短い大きなおしゃもじのような弦楽器……リュート? を傍らに置いたまま、長い指で徒然につま弾いている。あれは。


「——レン?」 


 遠慮がちに名前を呼んでみると、彼は池に架けられた短い橋のこちら側の私に気づいて、意外そうな表情をした。


「なんだ、ひとりで。あいつはどうした?」


 あいつとは、ナデァのことだろう。


「公衆大浴場に、メイドたちとおでかけ」


「主君を置いていくとは、ダメな奴だな」


「たまにはいいでしょ。ここはこの上なく安全だし」



 ああ、そうだ。ナデァの話のついでに、探りを入れてあげようかな。


 私はゆっくりと橋を渡り東屋にたどり着いた。


「ねぇ、ブラッツ卿は、想い人がいる?」


 レンは片眉をつり上げて私を見る。私はレンの座るベンチのそばまで近づく。


「さぁ、いるかどうかはわかならい。いてもそういう話はしないし、態度にも出さないし」


「いつも一緒にいるのに、私的なことは話さないの?」


「あいつは秘密主義なんだ」


「そんな感じね」


 私はくすっと笑った。



「なんだ、あいつのことが気になるのか?」


「私は興味ないけど」


 レンは鼻で笑った。


 私はレンの反対向いに座る。ベンチの上に置かれたリュートに視線を落とす。


「なぁに? こんなの、弾けるんだ?」


「昔は弾けたけど、今は弾けない」


「弾けたの?」


「親父の代の銀狼団に異国の奴隷だった奴がいて、子供のころ弾き方を教わったことがあった」


「そう。それで、今夜は?」


「今日の港の積み荷の取引相手がくれたんだ。ヴァイスベルクの王室にでも高値で売りつけようと思って、音を確認してた」



 私は昼間のことを思い出す。


「ヴァイスベルクと言えば、どうして大公殿下の名前を出してうそついたの?」


 レンは不敵な笑みを私に向けた。


「いや、ホントに大公がそう言ったから」


「うそよ。どうしてヴァイスベルクの大公殿下が私のことを知ってるのよ?」


「知ってるってさ。何かの国際行事で見かけてるかも?」


「そう言われれば……そうかもね」


「そのうち会わせてやる」



 レンは長い指で適当に弦をはじいた。

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