第64話

「ああそうだった。なにかあるときは常にこの人をエスコートして顔を出すように、大公殿下から申し付けられていたな」


 えっ?


 さすがのブラッツ卿も絶望的に目を丸くしている。私はあっけに取られて背後のレンを仰ぎ見た。彼は不敵な笑みをその薄い唇に浮かべている。ちょっと、大公殿下だなんて、勝手に名前をかたってもいいわけ⁈


「どういうことですのっ⁈」


 それまで、父親の隣で無言で状況を見ていた令嬢が、突然立ち上がって声を荒げた。彼女は父親によく似た小さな目をつり上げて私を睨みつけ、自分の父親を見上げた。


「お父様っ! それじゃあ、わたくしのエスコートは⁈」



 ははぁ……そういうこと。


 私はレンを見上げた。レンは白々しい笑顔を私に向けた。あなたの考えてることは、はっきりわかったわ。


「あっ、そ、そうでした。そういうことです、伯爵様」


 ブラッツ卿、アドリブについてくるのがすごい。


 睨み上げる自分の娘と私たちを交互に見て、伯爵はレンに言った。



「そ、それなら、私がアルトマン嬢をエスコートしようじゃないか。キミはうちの娘を……」


 レンは微かに苦笑すると、後ろから私を抱きしめ、こめかみにちゅっとわざとらしく口づけた。


「……っ!」


 私は悲鳴を飲み込んだ。ぎゅううぅぅぅ、とレンの腕に力がこもる。うっ。苦しいよ。今は何も余計なことはしゃべるな、という無言の脅しか。


「いいや、それはできないな。彼女のエスコートは、俺じゃないと、な、ブラッツ?」


「え、ええ」


 ブラッツ卿は完全に混乱している。でも冷静さを保っているところがすごい。きれいな顔がちょっと引きつってるけど。



 ドアのほうをチラ見すると、ナデァとキーランド卿が口をぽかんと開けたまま固まっている。そりゃそうでしょ、私だって呆然としているし。


「そ、それは、つまり、キミは……」


 伯爵は怒りを通り越して蒼白になる。レンはふ、と悪い笑みを浮かべて両腕で私を抱きしめた。


「俺がエスコートする女は、この人だけなんだ」




 手負いの野生動物のようにぎゃあぎゃあと喚き散らす令嬢を必死でなだめながら、伯爵は白い馬車に乗って去って行った。


「……」


 ソファに座り、ブラッツ卿が片方のこめかみを抑えてうつむいている。私の隣に座るナデァはなぜかこの状況を楽しんでいる。レンはウェンダルが淹れなおしたお茶をずずず、と啜ってなぜか満足げな表情をしている。


「あの。つまり私も、あの伯爵の晩餐会に出なきゃいけないってこと?」


 私の避難がましい視線などお構いなしに、レンはまったく悪びれずに肩をすくめた。


「仕方ないと思え。あいつの機嫌を損ねると、うちの商団としては面倒が増えるんだ。かといって、あいつの娘の相手をさせられるなんて死んでもごめんだし」


「いや、いっそ、死ぬ気で相手すれば? 死なないだろうから」


「死ぬほうがましだろって思ってたところに、ちょ~うどいいタイミングだったな。あんたでも役に立つことがあるとは」


「……」



 はぁ、と深いため息をついた私の隣で、ナディアはソファから少し身を乗り出した。


「でもヴィ様、これはいいアイディアかもしれないです」




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