第61話

剣ベルトに下げていた短剣ドルヒの柄をつかみ、素早く鞘から抜き取る。そして迷わず、ロックを外そうとしている窓から伸びた太い腕の、手首とひじのちょうど真ん中あたりを思い切り刺した。



 うぎゃあああっ! 



 大きな悲鳴が上がり、腕が窓から引っこ抜かれた。と、その直後、割れた窓の外から別の断末魔の叫び声が上がった。短剣を握ったまま震える私を、後ろからナデァが飛びついて抱きしめる。短剣にはギトギトと血が光って床に滴り落ち、鉄の匂いが馬車の中に漂う。



 私……初めて、誰かを刃物で刺しちゃった……



 震えが止まらない。ぽたり。ぱたぱた。剣先から血が滴り落ちる。


「レディ!」


 外から聞き慣れた声がして、私たちは緊張の絶頂から解放された。


「お怪我はありませんかっ! 全員、制圧しました」


 キーランド卿の声は、息が上がっていた。


 私は恐る恐る体を伸ばしてドアの金具を上げた。背中にはぴったりナデァが張り付いていてちょっと重い。


 ドアが開いて、キーラン卿が私たちを見てぎょっとした。


「レディ、お怪我は⁈」


 私は短剣をぽとりと床に落とした。


「だ、大丈夫、私たちの血じゃないわ」


 キーランド卿も無傷のようだ。


「レディ」


 キーランド卿の背後からブラッツ卿が現れる。彼も私の様子と床の血の付いた短剣を見てぎょっとする。


 あ、はは。氷の彫刻が、驚愕してるわ。珍しいこともあるものね、なんて冗談を言おうとしたのに。




 ふ、と目の前が真っ赤になって、私は気を失った(みたい)。






 意識が戻ったのは、宿の部屋だった。


「ヴィ様っ。やっとお目覚めになりましたね。よかった……」


 めそめそと、ナデァが枕元で泣いていた。私が何か話そうとしたのに、彼女はびゅーんと部屋の外へ駆けだして行った。しばらくすると、控えめなノックの音がして声が聞こえた。


「レディ、ブラッツです。入ってよろしいでしょうか」


 心の中でち、と舌打ちをして小さなため息をつくと、私は諦めてどうぞと答えた。今はすごい疲労感だから、できれば気を使う人には会いたくないんだけどな。



 遠慮がちに入ってきたブラッツ卿は、今までに見たことのない、申し訳なさそうな表情でしょぼんと頭を垂れていた。


「本日は申し訳ございませんでした」


「——横になったままで失礼します。謝ることはありませんよ」


「全員対処したと思っていたら、馬車の陰にもうひとりいたようです」


 それが、あの太い腕の男なのね。


「そうですか。ありがとうございます」


 私の感謝の言葉にブラッツ卿は目を丸くした。


「はい?」


「ありがとうございます。あなたに剣を習っていたので、とっさに攻撃することができました」


「ああ……あれは、とても勇敢でした」


 えっ? いま、褒めた?


「いくら練習していても、実際には固まって何もできないことが多いのです」


 えええ?



 

 氷の彫刻が……銀狼団の冷酷な魔術師の副団長が……



 私を……褒めてる⁈

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