第53話

脇から顔を覗き込むと、アダリーは気まずそうにうつむきながら言った。


「貴い身分のお方にお礼を言われたのは、初めてです」


 私ははは、と力の抜けた笑いを浮かべた。


「お礼に身分は関係ないでしょ。じゃあ、これからもたくさん言うので、慣れてね!」


 アダリーはきょとんとして、そしてすぐに木の枝を振り仰いでははっと笑った。美女が大口開けて豪快に笑う様に私はぽかんと口を開けて見惚れる。


「あなたは……さすが、王子妃の座をすっぱりと捨てるだけのすごい方なんですね」


「さすがって……」


「王子妃だったおかたではないですか。それなのに今や馬に乗り草原を駆け抜け、汚れも気にせず草に寝転がり、宿屋や娼館の女将にありがとうだなんて」


「ありがたいからありがとうです。誰にだってお礼は言うでしょう?」


 アダリーは声を殺し、お腹を抱えて笑い続ける。褒められてるのかディスられてるのかわからないけど……嫌な気はしない。ああ、もしかして彼女は、貴族の女性に何か嫌な目に遭わされた経験があるのかもしれないね。それで私のことも、嫌な女だと思い込んでいたのかも?


 なんか彼女の心の壁が、ちょっと溶けたように感じる。私は上半身をひねって彼女のほうへ身を乗り出す。


「ねぇ、最近酒場で、料理を習っているの。宿屋とか娼館にもすっごく興味が……」


「いいぇ! それはいけません」


「どうして? 社会勉強でしょう? 見学くらいなら……」


「酒場はボスの目が届くのでいいとして……宿屋も娼館も商会からは離れたところにありますし、もしお連れしたらボスに叱られます」


 笑いがすっと引いて、彼女は真顔で首を横に振り続けた。


「それじゃあ、許可を取ればいい?」


「いいえ。宿屋と娼館は間違っても許可はおりませんので、訊ねるのもおやめください」


「そんなにレンは怖いの?」


「怖いです。レディ、これだけはお気を付けください。ボスに内緒で突拍子もないことはなさらないでください」


「ええ?」


「危険がないことが確認できれば、こうして実現させてくれますから」



 ふぅん。


 私ってラルドから引き継がれた、レンの厄介なお荷物ってところかな。私が離婚して出戻りにならなければ、たいして気にするようなお荷物でもなかったんだろうけど。


 でもまぁ、アダリーの私に対する偏見(?)が少し無くなったことは収穫だったかな。


 帰り道、彼女はぽつぽつと、通りがかりの景色や街中のことについて説明してくれた。おかげで、お城の奥深くにいては知ることのできないいろいろな世情を知ることができた。さすが情報の元締めだけあって、彼女はさまざまなことに精通していた。


 噴水の置かれた広場から大きな通りに入ってすぐの角に、アルトマン商会は立っている。もちろん、一階は酒場『狼の片足Wolf’s paw』。酒場のドアの前を通り越せば、私の家。



「あ」


 広場の中央の石造りの円形噴水の前を通り過ぎようとしたとき、私は思わず体を後ろに引いて馬の歩みを止めた。


「どうなさいました?」


 ナデァが後ろから声をかけてくる。前を行くキーランド卿も馬を止め、最後尾のアダリーも止まった。

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