第50話

誰が訪ねてきても、私がどこに行ったのかは言わないでください。


 たとえそれがエラードでも辺境伯でも、王家の関係者だとしても。


 しばらく外国を旅行してまわると言っていたと伝えておいてください。



 カスパル卿は「承知いたしました」と丁寧に頭を下げた。彼は王妃の元側近だけれど今はうちの家令だから、私の秘密を王妃に漏らすようなことはしないだろう。彼はそれだけ、優秀で誠実な人だから。


 エラードが魔術で無理矢理に吐かせようとするかもしれないから、カスパル卿の許可を得て、彼は私たちが本当に旅行に行ったと思い込むような催眠魔法をブラッツ卿にかけてもらった。これでエラードが魔術で彼に白状させようとしても真実はバレないの。あの子はいい子だけど、しばらくは何の邪魔もされたくないからごめんねって感じ。


 もと実家のアルトマン商会の裏の、小さな建物に私はナデァとキーランド卿だけを連れて引っ越した。



 これが本当の自由よ!



 宝石の付いたドレスや髪飾りはすべて邸に置いてきた。今は髪をひとつに束ねるか無造作に結い上げるだけ、庶民のシンプルなドレスを着ている。その分、近所を歩くには目立たなくていいだろう……とは思っていたけれど。


「いくら庶民の格好をしていても、にじみ出る気品と美しさは隠しきれずどうしても人目を引いてしまうようです。ぜっっっったいにおひとりで出歩かないでくださいね。外を歩くときは布をかぶってなるべくお顔を隠してください」


 ナデァはことのほか用心深い。おおげさだなぁ、とは思うけど、もしも誘拐されたりしたらみんなに迷惑がかかるからおとなしく言うことを聞くことにする。自由は、ある程度の制約の上に成り立つものだしね。



 ブラッツ卿は嫌々なのを冷たい無表情の下に何とか隠して、剣術の稽古につき合ってくれている。彼もレンの右腕として忙しいし、週に一回か二回程度だけど。ナデァは私が木剣であしらわれるのを見て(というかブラッツ卿のことしか見てないけど)にやにやしている。キーランド卿は少年のように目をキラキラさせて熱心に指導法を観察している。


 マイツェン伯爵の称号を狙う煩わしい求婚は、うちには一切届かない。隣近所は空き家にしているとブラッツ卿は言っていたけど、両隣は下宿屋と若夫婦の営むパン屋でちゃんと人が棲んでいる、と思いきや、彼らはすべて商会や傭兵団のメンバーなんですって。ナデァによると、商会の裏の家に私が棲むことになったから、彼らは私の監視と護衛だとのこと。


 レンはとても手際がいいのね。部下たちは彼をとても信頼して尊敬しているみたい。私にはいつも、傲岸不遜な感じだけど。



 新居を仮に「新アルトマン家」と呼ぶとしよう。そこに移ってきて十日ほどが経った。酒場の厨房で女将さんの旦那さんに習った料理を夕飯としてナデァとキーランド卿にふるまったり、自分たちで掃除洗濯をしたりして、なかなか充実した毎日を送っていたら、ある日の午後にレンに地下の事務所に呼び出されたの。


「実は」


 彼は私を事務所の応接室のソファに座らせるなり、皮肉な苦笑を浮かべて言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る