第31話

王宮の屋上の片隅から、ゆっくりと遠ざかる馬車をロイス王子はじっと眺めていた。


 彼の最愛の妻が、去ってゆく。


 いや、法律的にはもう妻ではないらしい。


 悲しくはない。


 怒りもない。


 


 ただ、むなしかった。


 それもこれも……「何も感じない」と彼女は言ったせいだ。


 彼がほかの女と浮気をしても、子供ができたと言っても。


 怒ったり泣いたり失望したりしてくれたら、どんなに良かっただろう。それなのに彼女は、少し驚いただけだった。

 


 彼は過ちの始まりについて考える。


 ――あの夜、ある貴族の邸のパーティに一人で招かれた。ずいぶんと酔っぱらってしまい、目覚めたら朝で、隣には知っている女がいた。


 それは、王子妃ヴィヴェカ付きの侍女のひとり。


 魅惑的な赤毛の女、トリーシャ。



『悲しくないし、本当に……何も感じないのです』とヴィは言った。その言葉が、あの日からずっと王子を苛んでいる。



 自分の不貞を棚に上げて、ヴィに腹を立てた。子ができたとトリーシャから告げられた時、それがヴィからの報告だったらどんなに幸せで喜ばしいことだったかと思う。父王にも第二夫人がいるの。自分にいても問題ないだろう。トリーシャには特別な愛情は感じていない。ならば彼女の生む子をヴィの子として育てればいいのではないか。


 王子は侍女の腹に子ができたことを国王夫妻に報告するついでに、自分の名案を一緒に伝えた。日ごろから王孫を待ち望んでいた両親は、戸惑いこそしたがとても喜んでくれた。彼の「名案」に王妃は眉をひそめたが、孫を見られるという点が何よりも優先されて、彼女は息子に何も言わなかった。



 問題は、ヴィにどのように伝えるかだった。



 意図したわけではないが、孕んだのは彼女の侍女の一人だ。平謝りに謝るか? いや、未来の国王となるべき王子が、そんなことで妃に謝るべきではない。別に違法ではないのだ。一生愛すると誓ったが、妃に対する愛情が減ったわけではない。ただ少し、後ろめたいだけだ。



 彼はさりげなく伝えることを選んだ。愛する女との関係を維持し、愛していない女には取引を持ち掛けた。それでうまくいくはずだった。普段から彼が未来の国王となるためにあらゆることに腐心するヴィならば、その条件を飲んでくれると信じて疑わなかったのだ。


 しかし彼女は、意外な行動に出た。


 まさか、廃妃になることを望み、彼が公務で数日間いない間にすべての手続きを済ませてしまうとは。


 それが彼への憎しみや恨みでそうしたのなら、何としてでも引き留めたに違いない。それなのに……彼女は「何も感じない」といったのだ。



 (もう、何もかもがどうでもいい。私も、何も感じなくなればいい)



 彼は意図せずして初恋を失うことになった。



 永遠の愛を誓ったのに。人の気持ちというのは、脆いものだ。


 いや……


 彼は常に、愛していると伝えてきた。彼女もそれにこたえてくれていた。


 本当にそうだったのだろうか。


 初めて出会った時から、彼は彼女を愛していた。


 しかし、はたして彼女も同じ気持ちだったのか。それはもう、わからない。



 王子は馬車が門をくぐって見えなくなるまでただただ、じっと見つめていた。

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