第3話

何も覚えていない。


 いや、待って待って。



 ふー。


 すー。


 深呼吸して、ゆっくり思い出してみよう。


 私は両方のこめかみをぐるぐると揉んで必死に考えた。




 たしか、目が覚める前までは人生で最悪な一日を過ごしていたはずだった。


 勤めていたエステサロンのオーナーが夜逃げして、出勤したら大変なことになっていたのだ。


『当社は今般、諸事情により202X年○月△日をもちまして破産手続き決定により、同日を持ちまして前サロンを閉店いたします。長らくご愛顧いただきまして、誠にありがとうございました。』


 店長もほかの従業員も仰天困惑で、サロンのドアの前で青ざめて途方に暮れていた。


 オーナーの電話は「現在使われておりません」のメッセージが流れるのみ。


 私と店長、後輩の三人は、お客様方の非難の的になりたくなかったので、とりあえずのそ場を離れることにした。



 でも怒りの矛先が正しいほうに確実に向くことを強く望むから……張り紙の脇にオーナーの名刺と、(もうすでに姿をくらましていると思われるけど)個人電話番号、住所、そして彼女のメールアドレス、いくつかのSNSのIDを張り付けてサロンを後にした。



 給与の支給がひと月滞っていた上に、今月分も支払われないってことだよね?


 休みでシフトに入っていなかったあと三人の従業員も合流して、私たちは店長のユウコさんのマンションで緊急ミーティングを開いた。でも、なすすべ無し。


 その日は夜逃げしたオーナーを恨んで、夜中までみんなでやけ酒を呷りまくったのだ。


 

 で、ユウコさんちからの帰り道、みんなとさよならしてひとり夜道を歩いていたのよね。


 通い慣れた道。


 真夜中でも治安が悪いなんて感じたことは一度もなかった。


 マンションが多いから、夜でも人通りは多いほうだったし。


 川に架かる橋も広くてライトも多くて見通しもいい。


 いつも通りの道。


 橋を渡りきったところで下のほうからみゃあみゃあと、か細い声がして……



 振り返ろうとしたとき、左の腰に何かが激しくぶつかって……誰か、スニーカー? 走り去る軽快な音。


 経験したことのない、なんか、熱い感じ。うっ、とうめき声が口から洩れる。


 えっ? これ、私の声?


「あぁっ……」


 息ができないくらいの苦しさ、激痛。


 何かがぶつかった左側の腰に手を持っていくと……



 私の腰には、なんだかすごく大きなごっついナイフが刺さっていた。手が、ぬるっとする。鉄の匂い。


「……ぁ」



 (たぶん)私は道路に崩れ落ちた。ぞくぞくと悪寒が走る。




 そして目の前が真っ赤になった……ような気がする。

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