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第47話
オーブリーが聖杯に口をつけようとした時、静寂を破る毅然とした声が大聖堂に響き渡った。
「お待ちください!」
人でぎっしりと埋め尽くされた大聖堂がしんと静まり返る。
人々の視線は、最前列で立ち上がった王室第二騎士団の白い礼服を身にまとった、第二王子クリストフに注がれた。
「兄上! それを飲んではなりません!」
クリストフの大股の足音が、白い石床にカツカツと響き渡る。そのゆるぎない足音は、まっすぐに祭壇の前の兄に向けられた。
「クリス?」
第一王子オーブリーは、近づいてくる弟に首をかしげた。
「わたくしは! もうこんなことは二度と起きてほしくはないのです!」
いくぶん大げさに、クリストフは美声を張り上げた。それは高い天井に届くくらいに清涼に響き渡った。
「兄上、どうか、父上のような立派な君主になられることを心より願い申し上げます」
彼は祭壇の下でひざまずいてやさしい口調でそう述べると、さっと立ち上がり、大股で兄に近づくとその手から聖杯をそっと奪い取り、父王のほうを向いて深々と一礼した。そして兄の代わりに聖杯のなかのワインを一気に呷った。
まるで人気俳優のような彼の言動に、誰もが目を奪われた。
人々が息をのむ。
彼の母である第二夫人マルグリット夫人の悲鳴が上がる。
カラン、と無機質な金属音がする。聖杯が石床を転がった。そして人々の悲鳴交じりのどよめきが上がる。
「クリス!」
第一王子の絶叫。
第二王子は全身小刻みに震えながら、床に崩れ落ちた。
「殿下っ!」
第二王子の護衛騎士であるファビアンが、倒れたクリストフに駆け寄る。彼に抱き起され仰向けになった第二王子の口の端からは、一筋の赤いものが流れて白い礼服の胸元ににじんだ。
あちこちから女性たちの悲鳴が上がる。
「クリス? クリスっ!」
第一王子も駆け寄り、弟の顔をのぞき込む。第二王子は青ざめてすでにピクリとも動かない。
「だっ、誰か! 医師を呼べっ! 早く! 今すぐ呼ぶんだ!」
第一王子が声を張り上げる。ジゼルは席に着いたまま青ざめて、口元を両手で覆っている。第二夫人は立ち上がったものの、目の前で動かなくなった息子を見て気を失ってしまい、隣に座っていた兄侯爵に支えられた。
いまや大聖堂は混沌と化した。
「あーあ……ちょっと、やりすぎでは?」
カミーユは下をのぞき込んで呆れたため息をつく。
「第一王子は……演技がうまいな」
マクスも肩をすくめる。
「ファビアンが一番うまいのでは? 第二王子を抱きかかえるあの動揺ぶり、演技とは思えないくらい真に迫っている」
「あなたのいとこは知っているのか? かなり青ざめているが」
「ジス? 一応、演技だから取り乱すなとは伝えておいた。でも絶望的な表情だな」
下方の大混乱を見下ろしながら、二人はのんびりと話している。
王室第二騎士団の騎士たちがファビアンを引きはがし、第二王子を運び出してゆく。
「王宮の医師にはすでに暗示をかけてあるから、これからのことは第二王子の計画通りに進むだろう。それにしてもあの王子は、とんだ目立ちたがり屋だな」
カミーユの言葉にマクスはくすっと笑う。
「まあ、一方では毒で亡くなったことを大勢の目の前で証明したことにもなるだろう。これでシャイエ派は終わりだな。賢いやり方だ」
そう。立太子の儀式には大きなケチがついた。
しかしそれは第一王子のオーブリーが同意したことだ。
「あの人たちが無駄な夢を抱かないようにするためには、俺がいなくなるのが一番効果的だと思うんだ」
第一王子殺害計画を耳にした第二王子は、兄にそう告げた。彼の計画は兄の代わりに自分が「毒殺される」という驚くべき計画だった。
「非常に効果的な作戦ではありますが。王子としての立場を捨ててもよろしいのでしょうか?」
セヴランが冷静に問うと、クリストフはまるで他人事のように肩をすくめて笑った。
「いや、むしろよろしすぎさ。これで母上と伯父上の妄執から俺は解き放たれて、自由になれるんだ」
「いいのか? 一国の王子が死を偽装しても?」
いとこのノエルが呆れたため息をつく。
「んー、細かいことは気にするな。それよりさ、俺が『死んだ』ら、お前が兄上との連絡係、よろしく」
「クリス……その、死を偽装した後はどうするの?」
ジゼルが不安げに眉を下げて首をかしげた。するとクリストフは、まるで遠足に行く前日の子供のように楽し気に言った。
「俺はさ、ずっと夢があったんだよ。王族じゃなくてさ、平民として生きたいんだ」
「平民?」
「ああ。これからはいろいろな国を旅してまわって、最終的には兄上の領地の一つあたりに定住して、医師になるつもりなんだ」
「実はさ、殿下は幼いころから薬学や医学を何人かの医師たちに師事して学び続けているんだ」
ファビアンが説明を補足する。ジゼルは深いため息をついた。
「そうなのね。意思は固いのね。のんびり暮らすのが夢だとはよく言っていたけど……」
寂しげに肩を落とすジゼルの背にそっと手を添えて、傍らのオーブリーは弟に向かって静かに言った。
「お前の意思を尊重するよ。たとえ別人になろうとも、私たちが血のつながった兄弟だということに変わりはない。困ったことがあればいつでも連絡してこい」
「あぁ、もちろんだよ。俺は遠慮するなんて言葉は知らないからな!」
—―などというやり取りがあった。
第一王子の立太子の儀式の最中に第二王子が代わりに抱く殺されたという大ニュースは、またたくまに国中に広まった。生母の第二夫人は憔悴しきって寝込んでしまい、シャイエ派の貴族たちは早くも侯爵のもとを去り始めた。
二日後、急遽第二王子の葬儀がひそかに進められた。王宮の専属医師によると、非常に特殊な毒により亡くなったために、第二王子の棺を開けてはならないということだった。空気感染によって毒を吸い込むことにより、二次被害が広がる可能性があるという。彼の棺は厳重に密閉された。
「自分の葬儀に参加するのは、ある意味、貴重な体験ではあるよね!」
葬儀が終わり、一同は王宮の裏手の森の中の小高い丘の上にいた。あははと高笑いする青年は、平民のクリス。彼は美しいストロベリーブロンドを黒く染め、地味目な暗い色のライディングマントを羽織っている。
「兄上、ジス、末永く幸せに。俺の死でまたまた儀式が延期になってごめんな」
二人は首を横に振った。
「いいんだ。むしろお前には感謝してる。困ったことがあったら本当に連絡してくるんだぞ」
「お元気で、クリス。落ち着いたら遊びに来てください。私たちも会いに行くので」
「ああ、わかったよ。みんなも元気でな!」
クリスはセヴランやノエル、ジェレミー、マルクにもにこやかに手を挙げた。今までは第一王子派・シャイエ派と別れていたが、元はみな仲の良い幼馴染なのだ。一同もクリスとの別れを惜しんだ。
「そろそろ行こうか?」
彼の背後から、二頭の馬の手綱を引いたファビアンが声をかける。彼はクリスと同じような、地味なライディングマントを羽織った旅人スタイルだ。
「結局はお前もついてくるんだな。王宮に残って騎士団長なる夢はもういいのか?」
クリスが笑みを浮かべると、ファビアンは肩をすくめた。
「しかたないでしょ? 一人で行かせたら心配で眠れなくなりそうだから。なんにでも首を突っ込むから、トラブルを拾い歩きそうでさ。見張ってないと、僕の頭が心配しすぎでハゲそうだから」
「あはははは。結局は一緒に来たいくせに、このあまのじゃくめ。お前ってばほんっと、かわいいんだから。さて、カム」
クリスはジゼルの隣に立つカミーユに一歩近づいた。
「ありがとう。キミの魔術のおかげで、偽装死が完璧でばれずに済んだよ」
「感謝されるほどのことでもない。家に縛られるつらさは私にも少しは理解できる。これからは思うように生きたらよい」
「ああ。それでキミは……ついてきてくれるなんてことは、ないよね?」
一同から「おお~」とどよめきが上がる。
「ない」
間髪入れずに発せられたカミーユの言葉に、一同は「あぁ~」と失望の声を上げる。クールな表情のままのカミーユに柔らかな笑顔を向けて、クリスは首をかしげた。
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