knights of Hell

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第36話

魔界は、人間界とは違う。


 物心ついたころには、悪魔はみな相手を誘惑するすべとして「魅了」を身に着ける。


 魔界ではより魅力あるものが生き残れるし、支配層になることができる。


 半人半魔であっても魔界に暮らす限り、それは例外ではない。



「魅了」は他者から教わるようなものではなく、本能的に身についているものを呼び覚まして駆使すればいいものだ。


 また、周りがどのように誘惑し、されるかを見て学びこともできる。


 欲望については慣れ親しんできたが、誰かに特別な好意を持つということは知らずに育った。



「愛」について。


 一番の具体例は、今思えば両親だった。


 父は人間である母を愛した。そして母は悪魔である父を愛し、すべてを捨てて魔界に嫁入りした。


 何千という愛人や子供がいる父は、人間の女を「愛する」ことは母が初めてだと言っていた。


 幼い頃は本人たちからのろけを聞いても、カミーユには何一つピンとこなかった。


 父が母を誘惑した。母が父を誘惑した。だから自分が生まれたのだ。


 それ以上は……何も考える必要はなかった。



 四歳になったころ、父が城でパーティを開いた。


 ウァラクとリリアとかくれんぼをしていたカミーユは、庭園のバラの茂みに隠れているうちに眠ってしまった。



 二匹がそれに気づく前に、庭を散歩していたベリアルが彼女を見つけて拾い上げた。


 ふわりと高く抱き上げられて目を覚ましたカミーユは、この世のものとも思えない美しい悪魔が自分に微笑んでいるのを見て心臓が止まるかと思った。


「こんなところで眠っていては、どこかに連れ去られて食われてしまうよ、おちびさん」


「て、てんし……!」


 小さな手で目をこすりながら首をかしげるカミーユに、ベリアルはぷはっと噴出した。


「かつては、そう呼ばれていたこともあったが、今は悪魔だよ。きみは……甘い……人間の匂いがする。なるほど、閣下と人間との間にできたという末娘か」


「あなたは、だれでしゅか?」


「うーん。私を知らないのか。こんなに小さいなら仕方がないな。私はきみの父上の友人だ」


「あたちはかみーゆ。あなたのおなまえはなぁに?」


「ベリアルだ」


「べりおー?」


「まぁ、それでもいい」



 ベリアルはふと笑んでカミーユを地面にそっと下した。カミーユは背の高い美しい悪魔を見上げた。


「ふん、なるほど。アスタロトが心配していた通り、あまり魔力を持っていないんだな。かといって、完全にないわけでもない」


 カミーユを見下ろしたベリアルは、美しいブルーグリーンの瞳でそう言った。


「べりおーしゃま」


「うん?」


「あたちね、はんぶんにんげんなんだって。それで、みんながいじわるするんだよ」


「ああ、そうか。どれ……」


 美しい悪魔は少女の頭上に手を翳してしばらく考え込んだ。そして小首をかしげると薄い唇の両端を上げてうなずいた。


「本当に、魔力はほとんど感じられないな。だがもともとないというよりは、何かに阻まれているような。大丈夫、お前はあのアスタロトの娘だ。悪魔にはなれなくとも、長ずれば強大な魔力を得るはずだ」


 幼いカミーユは大悪魔の言葉をほとんど理解できなかった。しかし、悪いことを言われていないことは何となく感じ取れた。彼女は嬉しくなってにっこりと笑った。


「ありがとぉ、べりおーしゃま。りっぱなあくまになるように、あたちがんばるね!」


 大悪魔はぷっと吹き出すと、カミーユの頭を撫でた。


「ああ。お前が長じて強力な魔力を持つ悪魔となったら、私の伴侶にしてやろう。もしも悪魔ではない何かになったら……私の血筋のだれかの伴侶にして、死ぬまで私が守護してやろう」


 その言葉も、四歳の子供には少し難しかった。「伴侶」という単語さえ、彼女にとっては初耳で、意味もさっぱり分からなかった。それでも、いいことを言われている自覚はあった。


「うん! 約束やくしょく!」


「ああ。契約成立だ」


 ベリアルがカミーユの小さな額にちょいと指先で触れた。直径が5㎝ほどの魔方陣が、彼女の額に浮かび上がってすぐに消えた。





 それから十年。


 そんな幼い頃のたった数時間の出来事など、彼女はすっかり忘れ去っていた。



 十四歳になった年に、ふたつ年上の姉の成人式をこっそり覗き見た。その時、来賓としてあいさつに来たベリアルを垣間見て、カミーユは「ひとめぼれ」してしまった。


 それ以来彼女はベリアルを憧れのひとと公言してはばからなかったが、魔力が弱いことに劣等感をを抱いていたために、直接挨拶をすることを避けていた。


 課題を終えて、十分な力がついたその時にはあいさつに出向こう。



 ずっと、そう思っていた。



 最近はすっかり、忘れてしまっていたけれど。






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 公爵邸のバルコニー。


 軽微で地味な男装に身を包んで黒いローブを纏い長剣を背負ったカミーユは、心配そうなジゼルに不敵な笑みを見せた。


「ちょっと様子を見て納得したらすぐに戻る」


 ジゼルは力なく苦笑する。


「納得しなかったら、そうしないんでしょう?」


 カミーユは答えずに琥珀の散る紫がかったブルーの目をくるりと回してごまかした。


「危ないことはしないでって言っても、するんでしょう? でも、カム」


 ジゼルはカミーユの皮手袋をはめた華奢な手をそっと取った。


「必ず帰って来てね。待ってるから」


 カミーユはまじまじといとこを見つめた。


 彼女の黄緑に近いへーゼルの瞳はゆらゆらと揺れている。


「もちろん。必ず戻ってくる。もう一つの課題は、契約した悪魔をしとめて西の皇帝を絶望させて達成するのもいいかもしれない。お前の晴れ姿も見ないといけないしな」


 カミーユはそっとジゼルの頬を撫でると、一歩バルコニーに踏み込んで黒い雲の立ち込める空に右手を上げた。




 ごうごうと低い音と強い突風が吹く。

 

 ジゼルは飛ばされないように窓枠にしがみつく。


 カミーユはバルコニーの手すりにひらりと飛び乗って、勢いをつけてそのまま宙にダイブした。すると強い上昇気流が吹いて、彼女の体を宙に押し上げた。翻弄される木の葉のように舞い上がると、彼女の体は黒いドラゴンが差し出した首に掬い受け止められた。


 ひとつにまとめた長い銀の髪が、強風になびく。



 ジゼルはカミーユが見えなくなるまで、ずっと西の空を眺め続けた。

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