第32話

「——あのぅ……」


 まるで一枚の羽根のように、少年魔術師がガラスの破片が散らばった床の上にふわりと降りてきた。


「うん?」


 カミーユが首をかしげると、彼は優雅にお辞儀をしながら言った。


「ご令嬢にも、魔塔主から伝言を預かって参りました」


「ふん……まぁ、何の事なのかは察しが付くが」


「今日と明日の境目に、お会いしましょうとのことです」


「私が魔塔に行けばよいのだろうか?」


「ああ、いえ、普通にご就寝いただけば、夢の中におじゃまするそうです」


「は。まぁ、いいか。ではそのようにいたしますとお伝えしてくれ」


「承知いたしました。ご令嬢はお帰りください。わたくしがここを修復いたします」


「ありがとう」



 頭を下げる少年魔術師にくるりと背を向けると、カミーユはぱちりと指を鳴らした。


 アンセルムが顔を上げると、そこにはすでにカミーユの姿はなかった。


 彼は胸を抑え、緊張をすべて吐き切った。


「勘弁してください、ジブネラ様……グリ様だけでも緊張するのに、あのかたまでいらっしゃるところに来させるなんて。おしおきみたいじゃないですか」




 祖父の邸の自室に戻るや否や、カミーユは二匹の悪魔に泣きつかれた。


「嬢様っ! ご無事でしたか! あぁぁぁ、よかった!」


「だからついて行くって言ったのに! お嬢に万が一のことがあれば、俺たちがメフィスト様に何をされるかわかんないだろ!」


 カミーユはふんと鼻で笑う。


「人間界では私を害せる者はいないだろう? それに一緒にいたのはここでの最強の魔術師だぞ?」


「ですが! 先ほどのあの気配は尋常じゃなかったでしょう? あんなのは、魔界にいてもそう感じるものでもないですよ!」


「はっ! 夢魔程度ならそうかもしれないよな。でも俺様はあの正体がわかるぞ。あれは……」


 カミーユとリリアは自慢げに顎を上げて話すウァラクをじっと見つめた。


地獄の騎士ナイトオブヘルの放つ炎の矢だった」


「……ふぅん。それで、なぜそんなものがこの国に飛んでき飛んできた?」


 カミーユの反応が薄かったので、いささか不満げにウァラクは唇を尖らせた。


「お嬢を狙ったわけではないでしょう。あれは完全に流れ矢だったと思う」


「では、なぜ地獄の騎士が人間界で炎の矢など放つんだ?」


「それは知らねって! 魔術師かなんかの魔力の強い人間が召喚して、奴らを自分らの戦争にでも使おうって魂胆かも?」


 カミーユは考え込む。


「ふん……仮にそうだとして、この国に流れ矢が飛んできたのなら……この国か、周辺のどこかが標的ということかもしれないな」


「この国には魔塔があって優秀で強力な魔術師がたくさん在籍しているから、戦争を仕掛けてくる国はないと前にメフィスト様が言ってましたよ?」


 リリアがのんきに首をかしげる。


「でも、嫌な予感がするんだ」


 カミーユはため息交じりにそうつぶやいた。


「魔塔主に訊いてみたらどうですか? 彼女なら何か知っているかもしれませんよ?」


「そうそう。あ、訊いてみるみるついでに養殖魔獣を一匹、おやつにもらってきてくれよ!」


「あんたは! どこまで卑しいわけ?! 嬢様、こんな奴の言うことなんて聞いてあげなくていいですからねっ!」


 二匹の悪魔は人間の姿のまま猫同士のけんかのようににらみ合っている。


「そうだな……ジブネラ様に訊いてみるか」


 ざわざわと、深いな予感が足元から這い上がってくるような感覚を感じながら、カミーユは心ここにあらずのままうなずいた。




 今日と明日の境目。



 それは真夜中のほんの数分前と後を示す。



 少年魔術師の言葉通り、カミーユは自分の寝台で眠りについた。念のために、枕元には夢魔のリリアが寝ずの番をしている。大丈夫だと言ったが、万が一何かあった時にカミーユを夢の中から引き上げるためだと、リリアは断固として譲らなかった。


 ウァラクはバルコニーで待機している。リリアの言う「万が一」に魔塔主がカミーユを夢の中で捕らえたら、魔塔ごとジブネラを攻撃するためだ。こちらもそんなことはありえない、彼女はメフィストフェレスの旧友だと笑い飛ばしたが、ウァラクは断固として譲らなかった。


 地獄の騎士がまたもや「流れ矢」か、あるいはもっと強力な攻撃を仕掛けてくるかもしれないとの懸念もあるらしい。




 すとん。




 眠りの淵から自由落下したと思いきや、はっと目を覚ますとそこは魔塔の最上階、ジブネラの部屋だった。


「あの者には近づくべきではないと、伝えたが」


 背後からの声にはっと振り返ると、黒ローブの少女があぐらをかいて宙に浮いたまま、大きな紫色の瞳でカミーユを見つめていた。細い首をかしげると、濡烏色のおかっぱ頭の髪が幾筋か、白い頬にぱらりと降りかかった。


 紫水晶の瞳は無機質に見開かれているから、何の感情も読み取ることができない。


「——ジブネラ様」


「互いに利益はないゆえに、近づくべきではないと忠告したのに。狩猟大会でも温室でも、あなたはあの者に自ら近づいた」


「ええ……確かに」


 カミーユは素直にうなずいた。ジブネラには嘘は通用しないと、本能的に悟った。ジブネラは深いため息をつき、カミーユの視線の高さまで降りてきた。


「なぜそう忠告したのか、賢いあなたならわかると思ったのだが」


「ご期待に添えず」


 カミーユはまっすぐな力強い紫の瞳から目をそらした。ジブネラは生意気な少女の姿で深いため息をついた。


「やれやれ。ただでさえもあの子の出生はややこしい。あなたと関わればさらにややこしくなるというのに」


「ジブネラ様。私は彼の害にはならないし、逆もまたしかり。なぜ関わるなとおっしゃるのかわかりません」


 ジブネラは皮肉な笑みを口元に浮かべた。


「わからぬと? では、あなたはいつまでこちらの世界にとどまる気でおられるのか。あなたがあちらの世界に戻ってしまったら、またあの子は長い孤独の中に身を置かねばならなくなるのに?」


「……」



 カミーユは初めて気が付いた。


 まったく考えてもいなかったことを指摘されて、しばし呆然とした。


「課題をあと一つ終えれば、あなたはここを去るのだろう?ならばもう、これ以上親しくならずに、あの子のことは忘れてほしい」



 答えに詰まり口を虚しく動かすだけのカミーユに、ジブネラはさらに苦笑しながら告げた。


「まぁ、そうはいってももう、あの子はここに戻ることはないだろうが」


「どういう、ことですか?」


「あなたにするべきことがあるように、あの子にもあるということだ。あなたに伝えたかったことは、それだけだ」


 童女姿の魔塔主は、そう言い残すと幻のように消え失せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る